竹内 まりや (たけうち まりや、1955年 〈昭和 30年〉3月20日 - )は、日本 のシンガーソングライター ・作詞家 ・作曲家 ・ミュージシャン ・音楽プロデューサー 。出生名も竹内まりや。結婚後の本名は山下まりや[ 7] 。島根県 簸川郡 大社町 杵築南(現・島根県 出雲市 大社町杵築南[ gm 1] )出身。
生家・実家は出雲大社 ・二の鳥居近くに在る1877年 (明治 10年)創業の老舗 旅館 「竹野屋旅館」[ 8] [ 注釈 1] (後述 参照 )。父親は4代目竹内繁蔵 (旅館経営者。のちには大社町町長 も務めた)[ 9] 。夫 は山下達郎 (シンガーソングライター、ミュージシャン)(後述 参照 )。山下との間に一女がいる(※後述 参照 )。
現在所属するレコード会社はワーナーミュージック・ジャパン 。現在所属する芸能事務所 はスマイルカンパニー 、および、夫と共同経営する(著作権 管理用)個人事務所のテンダベリー&ハーヴェスト[ 注釈 2] 。
略歴
生い立ち
父は老舗旅館「竹野屋旅館」の4代目竹内繁蔵 [ 9] [ 注釈 3] 。まりや は2男4女における三女・第4子[ 9] [ 11] [ 注釈 4] 。
1961年 、地元の大社町立大社小学校(現・出雲市立大社小学校[ gm 3] )に入学した。
1967年 、大社町立大社中学校(現・出雲市立大社中学校 [ gm 4] )へ入学した。
高校時代
1970年 、島根県立大社高等学校 [ gm 5] へ進学した[ 2] 。高校時代はテニスに熱中[ 12] 。
高校2年生の9月から大学 受験 を控える3年生の8月まで、AFS 交換留学 制度を利用して、米国 イリノイ州 のロックフォールズ (英語版 ) にある四年制公立高校「ロックフォールズ高等学校(ロックフォールズ・タウンシップ・ハイスクール (英語版 ) 、Rock Falls Township High School )[ gm 6] 」で1年間の留学生活を送ることになった[ 1] [ 13] [ 14] [ 注釈 5] 。クラブ 活動はコーラス 部に入った[ 13] 。パーティで吉田拓郎 や六文銭 の歌を弾き語り で歌い[ 12] 、地元の新聞に載るほどの人気者になったという[ 12] 。
大学進学以降
1973年 、慶應義塾大学文学部 へ進学し、英米文学 を専攻した[ 1] [ 注釈 6] 。 慶應には、日吉キャンパス[ gm 7] を本拠として1962年 に結成された同校公認のオールジャンル・バンド サークル(音楽バンド同好会 )「Real McCOYs(リアル・マッコイズ、通称:マッコイ、慶應リアルマッコイズ、頭字語 :KRM)[ 16] 」があり、ジャンルを問わずに音楽とライブ等の演奏を楽しむこのサークルに[ 16] 竹内も籍を置いた[ 1] [ 17] 。3年生の杉真理 がリーダーを務めるこのバンドサークルで、竹内は鈴木慶一 の従妹 らとともにバックコーラス を担当している。 また、杉のソロ 活動をバンド形式でサポートする「PEOPLE(ピープル)」にも参加してキーボード とバックコーラスを担当した[ 17] 。1978年の音楽雑誌 での本人取材記事では「友人の杉真理のレコーディングにバック・コーラスで参加したのがデビューのきっかけ」と書かれている[ 12] 。当時の竹内はプロの歌手 を目指していたわけではなく、高校時代ビートルズの記事をよく読んでいた雑誌の影響から、将来は音楽雑誌 の編集者 になりたいと思っていた[ 注釈 3] 。
1974年 9月7日、杉の率いる PEOPLEは第8回ポプコン 関東・甲信越大会(中野サンプラザ )に「踊りに行こう」という曲で出場している。[要出典 ]
1970年代後半
1978年 、竹内はビクター より発売された『ロフト・セッションズ (1)』に参加し、「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」の2曲を録音する。この「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」はプロモーション ・オンリーの7インチシングル盤 でシングルカット された。この時の竹内の名義は「竹内マリヤ」であった(※『名義 』も参照 )。 竹内は、同年11月25日 、RCA/RVC より、シングル「戻っておいで・私の時間」、アルバム『BEGINNING』で音楽界デビューを果たした。この時、23歳であった。アイドル 不在の時期と重なったため、当初はそのルックスも相まってアイドル歌手 のような役割を担った。[ 12]
1979年 8月21日(火曜日)、3枚目のシングル「SEPTEMBER 」を発売した。この曲はトップ100圏内に半年近くチャートインし続け、同年12月31日に開催された第21回日本レコード大賞 で新人賞を獲得するに到った。「SEPTEMBER」では新宿音楽祭 の金賞を受賞し、イタリア のサンレモ音楽祭 にも出場した[ 18] 。
1980年代前半
1980年 2月5日 (火曜日 )には、資生堂 の化粧品のCMソング となったシングル曲「不思議なピーチパイ 」が大ヒットした。担当した安井かずみ が「あなたの声にぴったりな曲」と言われたのを今でも覚えている。当初は安井かずみ ・加藤和彦 夫妻や松本隆 などが提供する曲を歌っていた竹内であったが、自らも作詞・作曲を手がけるようになった。
但し竹内自身、当時のアイドル的活動には大きな不満を持っていた。心ならずもバラエティ番組 や、雑誌 の表紙 やグラビア などにも引く手数多の、芸能活動をやらされることになった竹内は、歌唱させて貰えない仕事も数多くこなさざるを得なかった。与えられた任務を懸命にこなしながらも、根本的疑問を抱えていたこの時期の竹内の前に、アレンジャー(編曲家 )として現れたのが、のちに公私に亘ってパートナー となる山下達郎 であった。
山下と大貫妙子 が率いるシュガー・ベイブ や山下のライブをアマチュア時代から見に行っていた竹内は、特に自らのデビューライブの直前に見た山下のライブに大きな衝撃を受けていた。竹内のレコーディングにアレンジャーとして起用された山下は、その後、同じRVC所属のシンガーのレコーディングに際して双方がコーラスに起用されるなど、関わりを密にしていった。アイドル的活動に深く思い悩んで行き詰まった自分に山下は親身になって相談に乗ってくれて、それが結婚に到るきっかけになったと竹内は語る[ 20] 。音楽番組 『夜のヒットスタジオ 』の同年7月28日 放送回に出演した竹内は司会者に問われて山下との交際を認めている(後述 参照)。
なお、竹内の結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、加藤和彦 、細野晴臣 、告井延隆 (センチメンタル・シティ・ロマンス )、大貫妙子 、林哲司 、伊藤銀次 、杉真理 、安部恭弘 、浜田金吾 といった作家が提供している。
1981年 、先述したアイドル歌手としてのオファーと、自身の希望する活動とのギャップに原因するストレスと過酷なスケジュールが祟って喉を傷めて入院、本人曰く「歌うのが楽しいと思って歌手になったのに楽しくなくなった。このままだと体を壊してしまう。それなら一旦この生活を止めよう」と音楽活動に一旦整理をつける意味から一時休業を宣言。
1982年 4月6日(火曜日)、27歳のとき山下と結婚。これ以降メディア露出はほとんどなくなったが、同時に作詞家・作曲家として活動を開始し、河合奈保子 に提供した「けんかをやめて 」「Invitation 」などがヒットした。同年の秋、山下の担当ディレクター小杉理宇造 がRVC から独立し、アルファ・ムーン を設立すると、山下も「役員兼所属ミュージシャン」として移籍した。
1984年 、アルファ・ムーンに移籍し、シングル「もう一度 」、そして全曲を自身が作詞・作曲したアルバム『VARIETY 』をリリースした。このアルバムの構想段階では、以前のように外部作家を起用して制作する予定であったが、休業中に書きためたオリジナル曲のクオリティの高さ(特に『プラスティック・ラヴ 』)に山下が驚き、「これなら全曲自作曲でも売れるだろう」と、全曲を自作曲のアルバムとしてリリースすることとなった。 [要出典 ] 同作品は最終的に30万枚以上のヒットを記録した。同年、娘が誕生。
1980年代後半
1981年 の休養宣言と1982年 4月の結婚をターニングポイントとして、それ以降は家庭を最優先にする生活になったため、ライブ活動からは遠のいた。しかし、アレンジャー とプロデューサー を務める夫のサポートを受けながら、シンガーソングライター として活動は続けた。
作詞・作曲家としては、薬師丸ひろ子 の「元気を出して 」(1984年 )、岡田有希子 の「-Dreaming Girl- 恋、はじめまして 」(1984年)、中山美穂 の「色・ホワイトブレンド 」(1986年 )など、数多くのヒット作を生み出してゆく。ホワイトブレンドの作製時はまだ子供が小さく寝た子供を起こさないように洗面所にミニキーボードを持ち込んで作業をした。なお、「元気を出して」は1987年 に竹内がセルフカバー しているほか、中国語 カバー(北京語 と広東語 のいずれか)が香港 と台湾 あるいは両地域で2005年までに4度発売されている。日本におけるセルフ以外のカバーは早くも初年(1984年)にピアノ ソロ 曲を出した村松健 や、2003年 にカバーしてヒットさせた島谷ひとみ ばかりでなく、多くのカバー曲が生み出されてきた。
1980年代半ばに中森明菜 のアルバム『CRIMSON 』のためにテーマに副った楽曲群を提供し、アルバムは1986年 に発売された。これ以降、竹内はOL の何気ない日常に焦点を当てた歌や、道ならぬ恋を題材にした曲を数多く世に送り出していった[ 注釈 7] 。これらは高評価を得て、竹内の音楽世界のパブリックイメージの一つとして定着する。なお、竹内は、中森のアルバムに提供した5曲中の2曲を1987年 )発売のアルバム『REQUEST 』の中でセルフカバー しており、また、もう1曲のセルフカバーは『Denim』(2007年 )の初回特典CDに収録された。
『REQUEST』は3年間のロングセールスを記録する。同1987年11月にはシングル「AFTER YEARS /駅 」が発売されているが、「駅」は中森明菜の持ち味に合わせて作詞・作曲された竹内にしては珍しいマイナーコード の曲であったものが、当初は予定に無かったセルフカバー としてリリースされ、大きな支持を集めることとなり、広くこの曲が知られるようになった。
1989年 9月、『火曜サスペンス劇場 』の8代目主題歌であった「シングル・アゲイン 」が発売され、ロング・ヒット曲となった。
1990年代
1990年 9月、『火曜サスペンス劇場』の9代目主題歌「告白 」が発売され、これもヒットした。
1992年 5月、「マンハッタン・キス 」がヒット。同年10月に発売されたアルバム『Quiet Life 』は、発売と同時にミリオン・セラーとなった。
1994年 5月、「純愛ラプソディ 」を発売。竹内まりや最大のヒット曲(シングル売上ランキング第1位曲)となった。
同年7月に発売されたベスト・アルバム『Impressions 』は売上枚数300万を超える大ヒットを記録。
1995年 11月発売のシングル曲で、ケンタッキー・フライドチキン のクリスマス キャンペーン用CMソングとして使用された「今夜はHearty Party 」では、当時たまたま観ていたフジテレビ 系ドラマ『あすなろ白書 』に触発され、歌詞に「キムタク」のフレーズを入れたことから、SMAP ・木村拓哉 の起用をジャニーズ事務所 へ打診したところ快諾を得て、コーラスと冒頭、間奏の台詞に木村が参加している。
1997年 には、人気アイドル広末涼子 が歌手としてデビューするに当たってシングル曲「MajiでKoiする5秒前 」を提供し、これもヒットした。眩いほどの希望に溢れた少女の心情を爽やかに謳った曲で、先述の大人の道ならぬ恋の歌を生み出す竹内の振り幅の大きさを改めて示す作品になった。
1998年 11月、フジテレビ 系木曜劇場 『眠れる森 』主題歌「カムフラージュ 」発売。竹内の作品としては初のオリコンシングルチャート 週間1位を獲得する大ヒットとなった。
1990年代の竹内は、縁故のあるミュージシャンのライブにサプライズゲストとして登場し、洋楽カバーを数曲歌うことはあっても[ 注釈 8] 、公式にライブ活動再開ということではなかった。
2000年代
2000年 7月、約18年ぶりの本格的なライブを東京・日本武道館 (11日、12日)と大阪・大阪城ホール (31日)で行い、計2万5000人を動員する[ 21] 。その後もアルバム『Bon Appetit! 』(2001年 )、カヴァーアルバム『Longtime Favorites 』(2003年 )などをリリースし、2作品はいずれもオリコンチャート第1位を獲得した。
2004年 には山下のシングル「忘れないで」の作詞を担当など、音楽活動を着実に増やし続けていた。
2006年 になると、子育てが一段落したことにより、新譜リリースを精力的に行うようになった。この頃からは、歌手として曲を提供されて歌っていた当時のことも思い出して、他人の作った曲も積極的に歌ってゆこうと考えるようになった[ 注釈 3] 。
2007年 には、6年ぶりのオリジナル・アルバム 『Denim 』を発表した。この作品でもオリコンチャート第1位を獲得した。同年8月に発売したシングル「チャンスの前髪 」には、サザンオールスターズ の原由子 がゲストボーカルとして参加している。
続く2008年 5月のシングル「幸せのものさし 」では 、この曲が主題歌となったTBS 系ドラマ『Around40〜注文の多いオンナたち〜 』の主演女優・天海祐希 が竹内たっての希望でコーラスに参加し、ミュージック・ビデオ にも出演した。デビュー30年を迎えるこの年の9月には、竹内の曲のみで構成されたジュークボックス・ミュージカル 『本気でオンリーユー 』が松浦亜弥 主演で初演された。 また、竹内の故郷である島根県を舞台としたNHK 連続テレビ小説 『だんだん 』が9月29日 から放送開始されたが、主題歌 「縁の糸 」とナレーション を竹内が担当し、また、ヒロイン を務めたマナカナ (三倉茉奈と三倉佳奈)には劇中歌「いのちの歌 」を提供している(※『名義 』も参照 )。
同10月1日 には、今までの発表曲を集大成したCD3枚組(初回のみボーナスディスク入りの4枚組)のベスト・アルバム『Expressions 』が発売された。このベスト・アルバムの選曲にあたり、公式サイトで楽曲のファン投票を行い、NHK『SONGS 』1周年記念特別番組にて発表している[ 注釈 9] 。10月23日 には、東京国際フォーラムで開かれた作・編曲家 林哲司 の活動35周年記念のコンサートにサプライズゲストとして登場し、林が手がけた「September」「象牙海岸」の2曲を生披露した。12月28日 、大阪フェスティバルホール で開かれた夫・山下達郎のフェスティバルホール最後の公演に、「私もフェスティバルホールにさよならをさせて欲しい」との意向でアンコールのサプライズゲストとして出演し、「人生の扉」「September」を披露したのに加えて、ダブルアンコールでは山下とのデュエットで「LET IT BE ME 」を披露した。
2009年 4月17日 、山下のコンサートツアー東京最終公演(追加公演を除く)にあたる中野サンプラザホールの公演にも、アンコールのサプライズゲストとして出演し、「September」を披露したうえで残り2曲のコーラス隊にも参加した。
2010年代前半
2010年 8月14日 に北海道で行われた野外フェス『RINSING SUN ROCK FESTIVAL 2010 in EZO』に山下が出演した際、バックコーラスの一人として全曲に参加。同年12月4日 、10年ぶりの本格的なライブである『souvenir again』(日本武道館)の初日にピアノ弾き語りで「いのちの歌 」を披露した。これは連続テレビ小説 『だんだん 』において主題的な意味を持つ重要な曲で、「作詞 Miyabi、作曲 村松崇継 」ということになっているのであるが、実は「Miyabi」は竹内のペンネーム であるということをその場で明かした[ 22] [ 23] (※『名義 』も参照 )。
2012年 4月6日 、結婚30周年(真珠婚 )を迎えた同年9月2日、『SWEET LOVE SHOWER 2012 』に山下が出演した際、スペシャルゲストとして登場し、「家に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)」「元気を出して」を披露した。
2013年 には出身地の出雲市 からの依頼を受け、出雲大社 の60年に一度の大遷宮 が斎行されるこの年に、故郷への想いを歌った楽曲『愛しきわが出雲』を書き下ろし、同年8月に提供した[ 24] [ 25] 。出雲の市民コーラス隊と共に、地元でレコーディングした4日 には、デビュー35周年の記念企画としてアン・ルイス 「リンダ」、河合奈保子 「けんかをやめて 」、中森明菜 「駅 」など他のアーティストへの提供楽曲を集めた2枚組コンピレーション・アルバム 『Mariya's Songbook 』を発売。自ら監修・選曲を手がけ、楽曲解説も自ら執筆。初回限定盤には自身が歌った提供楽曲のデモバージョンなどのレア音源も収録された[ 26] 。
2014年 、7月デビュー35周年アニバーサリイヤーを飾るシングル「静かな伝説(レジェンド)」リリース。竹内自身の発案で桑田佳祐 、原由子をコーラスに迎え、山下達郎も加えた4人での楽曲制作が「蒼氓」以来26年ぶりに実現した。同年9月、7年ぶりのアルバム『TRAD 』をリリース。オリコンチャート2週連続で1位獲得。第56回日本レコード大賞「最優秀アルバム賞」を受賞した。また、同年11月から12月にかけて1981年以来33年ぶりに6都市9公演の全国アリーナツアー『ケンタッキーフライドチキン presents 「souvenir2014」supported by JAPAN FM NETWORK』も開催した。同年11月19日、ムーン移籍後最初のアルバムである『VARIETY 』の30周年記念盤をリリースした。
2010年代後半
2019年3月12日、芸術選奨贈呈式にて(右)
2015年 3月、出雲市から特別功労者として表彰を受けた。市に楽曲『愛しきわが出雲』を提供するなどしたことで地域への愛着醸成に貢献した功績による受賞であった。同年5月、第6回岩谷時子賞 を受賞[ 27] 。
2016年 2月、嵐のニューシングル「復活LOVE」の作詞を手掛けた。作曲・編曲は山下達郎。同年4月、テレビ東京系列経済ニュース番組「ワールドビジネスサテライト」のエンディングテーマ「今日の想い」を書き下ろした。
2017年 7月15日には第三者の手でYouTube に80年代 の曲「PLASTIC LOVE 」(プラスティック・ラヴ)がアップロード され、作品リリースの無い海外でも視聴され始めた。同年11月22日には『REQUEST』の30周年記念盤をリリースしている。
2018年 、デビュー40周年を迎えた。この年、上述した「PLASTIC LOVE」の動画再生回数が2400万回以上という驚異的な伸びを見せ、大きな話題となった[ 28] [ 29] 。2010年代 初頭に始まったヴェイパーウェイヴ が数多くサンプリング したことで、かつて日本で大流行しながら欧米に輸出されなかったために国際的にはほぼ無名であったシティーポップ なる音楽ジャンルが“少しずつ”海外に知られることとなり、加えて、知ったからにはと世界中どこからでもボーダーレスで簡単にアクセスできる動画共有サービス を使って熱心に掘り起こされる過去作の中から「PLASTIC LOVE」と竹内が見出され、一躍脚光を浴びることになった[ 29] [ 30] 。それがこのブームの本流の動きであった。往時の竹内はシティーポップの第一人者というわけではなかったが、2017年発のブームの下では係る音楽ジャンルを代表する楽曲および人物と捉えられるまでになった。火付け役となったYouTubeには数多くのシティーポップ集がアップロードされるが、「PLASTIC LOVE」と竹内まりやはその種のコンピレーション では定番中の定番となった。
同年10月17日 には、デビュー40周年を記念してシングル「小さな願い/今を生きよう」をリリースし、11月18日 には初のファンミーティングを開催した。11月21日 からはデビューアルバム『BEGINNING』の40周年記念リマスター盤が発売されたことを皮切りに、RCA/RVC時代のカタログが最新リマスターとボーナストラック付きで順次発売された。11月23日からデビュー40周年を記念して製作されたライブ・ドキュメンタリー映画『souvenir the movie~MARIYA TAKEUCHI Theater Live』が、期間限定で全国ロードショー(後述 )。
2019年 3月、芸術選奨 文部科学大臣賞 (大衆芸能部門)を受賞。同月、デビュー40周年記念特番「竹内まりやMusic&Life〜40年をめぐる旅」がNHK総合で放送された[ 32] 。39年ぶりにNHKスタジオにて歌唱。ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ 映画『ダンボ 』(ティム・バートン 監督)にて日本版エンディングソング『ベイビー・マイン』を歌唱[ 33] 。同年5月、「関ジャム完全燃SHOW(テレビ朝日系列)にて竹内まりや特集がオンエア。前年公開された映画『souvenir the movie~MARIYA TAKEUCHI Theater Live』がアンコール上映される。同2019年9月、40周年記念アルバム『Turntable』をリリース。オリコンチャート 1位を記録し、これにより「昭和 ・平成 ・令和 3時代で1位を獲得した初の女性アーティスト」となると同時に、「女性最年長1位獲得アーティスト」(64歳6か月)となった。10月、映画「最高の人生の見つけ方」(犬童一心監督・吉永小百合・天海祐希共演)主題歌「旅のつづき」を書き下ろし、シングル・リリースする。11月、『第61回輝く!日本レコード大賞』にて「特別賞」を受賞。12月31日にはNHK紅白歌合戦 の特別企画・竹内まりや×第70回紅白 「未来へつなぐいのちのメッセージ」に出演し、「いのちの歌」を歌唱した[ 注釈 10] 。
2020年代
2020年 1月1日発売の「いのちの歌」(スペシャル・エディション)が13日付オリコン週間シングルランキングで第1位獲得。64歳10か月での1位獲得は歴代最年長記録となった。これにより、「カムフラージュ」以来21年1か月ぶりの1位インターバル記録を樹立した。11月18日、初の映像作品「souvenir the movie~Mariya Takeuchi Theater Live (special edition)~」をDVD、Blu-rayで発売。《Disc 1》には、デビュー40周年を記念して2018年11月に劇場公開され大ヒットしたライヴ・ドキュメンタリー映画『souvenir the movie 〜MARIYA TAKEUCHI Theater Live〜』を、《Disc 2》には、これまでに制作されたほとんどのミュージック・ビデオと、映画では未公開だったライヴ映像を4曲収録。さらには、山下達郎とのスペシャル対談やライヴ写真を掲載した80ページのブックレットが封入されている。「オリコン週間DVDランキング」、「オリコン週間Blu-ray Disc(以下BD)ランキング」で、ともに初登場1位を獲得。音楽作品のDVDとBDを合計した「ミュージックDVD・BDランキング」でも、合計売上6.2万枚で初登場1位を獲得し、3部門同時1位となった。 初めての音楽映像作品でオリコンチャート 3部門1位は史上4組目である。
2021年 1月22日、前年11月に7年ぶりの全国アリーナツアー『ケンタッキーフライドチキン presents 「souvenir2021」』を2021年4月~5月に全国6都市で計13公演開催する事を発表した[ 34] が、新型コロナウイルス感染拡大と緊急事態宣言の再発令を受け、中止を発表[ 35] 。
2月、アルバム『Turntable』とシングル「旅の続き」の応募抽選特典として、2019年4月に計画されていたZepp Tokyoでのライブが新型コロナ感染の影響で11月に延期となったが、感染状況が収束の兆しを見せないことから、無観客での配信ライブ『LIVE Turntable』として、当選者約2000人を対象にMUSIC/SLASHにて配信された。
5月29日、2月に応募特典として配信された『LIVE Turntable』のネット上での反響と全国アリーナツアーの中止を受け、初の有料ライブ動画配信『LIVE Turntable Plus』を実施した。2月に配信した限定ライブ映像に2010~2014年のライブ映像を加え、動画配信20分前には『サンデー・ソングブック 出張編』として音声配信「夫婦放談Plus」も実施され、音声とともに収録の様子の静止画が流された。プラットフォームはMUSIC/SLASH。6月11日〜13日にアンコール配信が実施された。
2021年 11月3日に杏里 とのユニット「Peach&Apricot」で「Watching Over You」(作詞:竹内まりや、 作・編曲:林哲司)の配信をスタート。林とのタッグはシングル「イチゴの誘惑」以来40年ぶり。旧知の仲である杏里との初コラボ作品[ 36] 。
2024年10月29日、アルバム『Precious Days』がオリコン 週間アルバムランキングで1位を獲得。69歳7ヵ月での1位獲得となり、「アルバム1位獲得最年長アーティスト」記録において、女性アーティスト歴代1位[ 37] 。
コンサート
2000年 に『TOKYO-FM &fm-osaka 開局30周年記念イベント』が、日本武道館(7月11日・12日)と大阪城ホール(7月31日)にて開催され、canna とSING LIKE TALKING とともに竹内本人も出演し、約18年ぶりに本格的なコンサートを開催した。公演は3番目のトリ として出演。約1時間半の公演時間で14曲を歌唱した。山下達郎もバックメンバーとして参加し[ 注釈 11] 、最後には二人のデュエット曲「LET IT BE ME 」も披露している。この模様は『Souvenir〜Mariya Takeuchi Live』としてアルバム化された。
これ以降も、2007年 10月13日に開催された、コブクロ などが出演した野外ライブ『風に吹かれて』で、シークレットゲストとしてサプライズ登場し、「元気を出して 」を、松たか子 などの出演者とともに披露し[ 注釈 12] 、また、長年の音楽仲間であるセンチメンタル・シティ・ロマンスのコンサートのサプライズゲストで持ち歌を披露するなど、必ずしもライブに否定的ではなく、竹内本人も2009年 以降のライブ活動に対して意欲を見せていた[ 注釈 13] 。また、同2008年12月5日に厚木市民文化会館で行われた夫・山下達郎のコンサートで、「まりやのコンサートもこのメンバーでやる」との山下の発言があり、ライブへの本格復帰が期待されていたが、その年に実現することは無かった。その後、2010年 8月29日にゲスト出演したラジオ番組『山下達郎のサンデー・ソングブック 』と公式サイトにおいて、12月3日・4日の日本武道館と12月21日・22日の大阪城ホールで、10年ぶりの本格的ライブである『souvenir again』を行うと発表した。このコンサートのライブ音源の一部は前述した番組の2011年 2月27日放送回で「夫婦放談番外編」として披露されている。2014年 には、11月22日から12月21日にかけて、33年ぶりとなる全国ツアー『souvenir 2014』を全国6都市で9公演を行った。
2018年 には、デビュー40周年を記念して過去3度に亘って開催されたコンサートの模様を『souvenir the movie~Mariya Takeuchi Theater Live~』と題し、東映 の配給により全国8か所[ 注釈 14] の映画館にて上映された[ 38] [ 33] [ 39] [ 40] 。2018年11月23日公開[ 40] 。上映時間 94分[ 40] 。好評を博したことにより、2019年 5月17日から2週間、全国8都市・8劇場でアンコール上映された[ 33] 。加えて、同作品は内容などが評価され、平成30年度(第69回)芸術選奨 文部科学大臣賞 (大衆芸能部門)を受賞した[ 33] 。また、アンコール上映の際は、2012年に公開されて話題を呼んだ山下達郎の『山下達郎シアター・ライヴ PERFORMANCE 1984-2012』も同時アンコール上映された[ 33] 。
コンサート一覧
人物
名義
出生名は竹内まりや (1955 )。
「他の3姉妹は『○○子』などと日本的名前だが、『1人くらい国外に行っても通用する名前にしても良いかな』と父が思い三女に『まりや』と命名。『まりあ』ではなく『まりや』と命名したのは『まりや』の方が字面的に収まりが良いと父が感じたから。『まりや』と命名してくれて有難いと今でも思っている。『まりや』という名を他の3姉妹に羨ましがられた事はあまりない。」と述べている[ 52] [要出典 ] 。
プロの音楽家 としての名義は、ごく一部の例外を除き竹内まりや 。結婚後の本名は山下まりや (1982 - )であるが公言する事は無い。しかしTBSラジオ 『安住紳一郎の日曜天国 』の2013年7月10日放送回にゲスト出演した際のやり取りで、家庭での様子を尋ねられる場面で、安住紳一郎 から「食事は、竹内まりやさんから?」と話を持ち掛けられ、「(家族といるときは)山下まりやです」と答えている[ 注釈 15] [要出典 ] 。
アマチュア時代の名義は竹内 マリヤ であった(? - 1978 )。当時の音源 は1978年 に作品化されており、そこでは当時の名義が用いられている。
しらさやえみ(白鞘慧海 )のセカンドシングル「君のそばに~song for Lucky」(1997年 11月21日発売)では MAKO 名義で作詞している。この曲は別の歌手に提供するために作曲を担当した杉真理 と共作したもので、しかし使われることなくお蔵入りしていたのを、白鞘が気に入ってシングル化したという経緯がある。Mako という名前は留学していたアメリカの公立高校でのニックネームと同じである(cf. 留学 )。
NHK 連続テレビ小説 『だんだん 』の劇中歌 「いのちの歌 」(2008年 9月29日放映開始)は、放映開始時点で無かった歌詞が途中回から付くようになった。その作詞はこの番組の主題歌とナレーション 担当の竹内まりやが Miyabi 名義で書いたものであった[ 53] [ 54] 。と2010年 12月4日のライブにて述べている (cf. Miyabi2008 , Miyabi2010 )。
曲作り
「思いを大衆と共有できるようにするため『こういう思いは皆にもあるはず』と感じた内容を出来るだけ平易かつ押しつけがましくないような作詞を心掛けている」と述べている[ 55] [要出典 ] 。
2014年 におけるワーナーミュージック・ジャパン の「竹内まりや スペシャルサイト」では、作曲 の際はピアノ またはキーボード を使う[ 56] と言っている。しかし、実際のところ、ピアノはめったに使わないらしい[ 注釈 3] [要出典 ] 。夫・山下達郎 は自宅の地下に専用の音楽室を持っていて、そこで曲作りをするが、竹内にそういったものは無く、大抵はダイニングテーブルの上でミニキーボードを使って作る[ 注釈 3] [要出典 ] 。
シングル曲「色・ホワイトブレンド 」を書いたときは、まだ娘が赤ちゃん だったので、寝かしつけた後で起こさないよう洗面所 辺りへ移動しては小さな音で作っていたが、すぐに目を醒ましてしまうため、行ったり来たりを繰り返していたという[ 注釈 3] [要出典 ] 。しかし、曲が書けなくなると子育て や主婦 業に逃げ、子育てや主婦業で行き詰ると曲作りに逃げることができたため、上手くバランスが取れていて楽しかったと振り返る[ 注釈 3] [要出典 ] 。
シンガーソング専業主婦
「シンガーソング専業主婦 」とも呼ばれる[ 57] [ 58] ようになったのは、夫の山下達郎がそのように名付けたからで、主婦 業をこなしつつ在宅のまま音楽活動を続けていたことによる。しかし竹内自身は「シンガーソング“兼業主婦”でしょ?」と笑って反論する[ 59] [ 60] [ 注釈 3] 。竹内は在宅のままでの主婦と音楽活動の兼業によって「作家的視点が養われた」と語っている[ 59] 。
影響を受けた音楽
音楽的な原点は、1960年代 のニール・セダカ やデル・シャノン などの欧米 ポップス の作品、弘田三枝子 や坂本九 、ザ・ピーナッツ など日本人 歌手が訳詞して歌っていたオールディーズ [ 56] 、吉田拓郎 [ 20] 。人生で最も大きな影響を受けたのはビートルズ である[ 13] 。1984年 発売のアルバム『VARIETY 』(のちの別表記: ヴァラエティ)の収録曲でシングルカット もされた「マージービートで唄わせて 」は、彼らへの想いを表したオマージュ ソングになっており、少女だったあの頃は話している言葉も分からないのに夢中で追いかけていたと謳っている。また、大学時代には、ジェームズ・テイラー などのシンガーソングライター、ウェストコーストロック 、ザ・バンド 、ニール・ヤング などを好んで聴いていた。リンダ・ロンシュタット の『Living in the USA 』のアルバムジャケット と同じような恰好をしたことがあり[ 61] 、"日本のリンダ・ロンシュタット"と称えられたこともあったが[ 61] 、これに反発し、「リンダよりキャロル・キング を尊敬する。彼女は自分で曲を書くから」と話したことがある[ 61] 。
ライブについて
結婚後にライブ をやらなかった理由については、当時は基本的に「子育てや家庭を優先するため」と語っており、夫・山下達郎から制限を受けていたり、遠慮・気遣いがあってのことではないと明言している[ 62] 。
実際、子育てが落ち着いた2000年 以降には、「souvenir」(2000年、@東京・大阪)、「souvenir again」(2010年 、@東京・大阪)、「souvenir 2014」(2014年 、@東京・大阪・札幌・仙台・広島・福岡)と銘打ったライブを行っている。しかし、チケットについては争奪戦が激しく、毎回プラチナチケットになっている。
アイドル的活動
1979年 10月2日 放送のフジテレビ系 特別番組 (スポーツバラエティ番組 )『第17回 オールスター紅白大運動会 』にRCAレーベルの代表の一人[ 20] として駆り出された時は、出るからには精いっぱい頑張って走り高跳び で第2位になったものの[ 20] 、帰宅して冷静になってからVTR で振り返っていると、「一日何も歌わせてもらえずに私は何をしていたんだろう」と酷く悲しい気持ちになったという[ 20] [ 注釈 3] 。また、1980年7月21日に発売される5作目のシングル曲「二人のバカンス 」を歌う予定で日本テレビ系 のバラエティ番組『TVジョッキー 』に出演した竹内は、大口コンテストというコーナーで天突き棒を使って一般人男性の口の中に大量のところてん を押し出す役を急遽させられる[ 20] [ 注釈 3] [ 13] 。男の子の口の中にところてんを押し込みながら、「私、何してるんだろう。」「私の人生、こんなことでいいのだろうか。」と疑問が湧き上がってきたという[ 20] [ 注釈 3] [ 13] 。やや冗談めかしてではあるが、この頃の思いがトラウマ になっていて、何十年経ってもバラエティ番組には出演できないと語る[ 14] [ 13] 。「ミニスカート とタイツ で、アイススケート をする私」の撮影や、「お部屋でトーストをかじる私」のグラビア撮影 とか、そういった仕事にも戸惑いばかりを抱いていた。
音楽界の頼れる先輩 であった山下にもこの件でよく相談に乗ってもらっていた[ 注釈 3] 。山下からも「その先に君が望むような未来は無い」と言われた[ 注釈 3] 。やがて竹内はテレビ番組 への出演を段階的に減らしていったが、踏ん切りを付けることはできないで活動し続けていたところ、いつものように出掛けようとしたある日の朝、急に涙が溢れてきて、そして声が出なくなってしまった。喉(のど ) を傷めたとも言っており[ 注釈 3] [ 13] 、とにかく入院する事態に陥ったことから、これを機に考えを切り替え、竹内は一旦芸能活動をリセットした[ 注釈 3] 。そうして、結婚相手と決めた山下を支える伴侶としての自分を第一とし、楽曲は提供する側に回って自分に合ったペースで手掛けてゆくことにした。
楽曲を提供する側になった竹内にとっては、アイドル的活動を通して経験した悲喜こもごもは大きな財産になった[ 13] 。作曲者および音楽プロデューサー としての竹内まりやには、アイドルへの深いシンパシーとリスペクトがあり、それが数々のヒット曲をアイドル歌手に提供できる素地になっている。
山下達郎について
当初、竹内にとっての山下は、純然とした音楽的活動をやらせてもらえない自分のこれからを相談することができる、頼り甲斐のある先輩であった[ 20] [ 注釈 3] 。さらに仕事と音楽に対する誠実さを知ることで、特別な存在へと変わっていった[ 注釈 3] 。(『不思議なピーチパイ 』のレコーディングの少し後の仕事として、)アン・ルイス に提供するシングル曲「リンダ」(4月発売)を製作している時、仕事が立て込んでいたにもかかわらず、合間を縫ってひとり徹夜で多重コーラス に取り組んでくれていたのを目にした時が、気持ちの切り替わった瞬間であったという[ 注釈 3] 。
フジテレビ系 の音楽番組 『夜のヒットスタジオ 』の1980年7月28日 放送回にシングル曲「二人のバカンス 」で出演した竹内は、歌唱後に司会の芳村真理 と井上順 に詰め寄られた[ 64] [ 65] 。既に双方の親に報告していたし、隠す必要も無かったので、「(噂どおり、山下達郎さんと)お付き合いしています」と答え、交際宣言をした[ 64] [ 65] 。結婚に際して山下からのプロポーズ の言葉は「結婚しようか」の一言くらいで、特別なことは無かったという。
竹内は夫のことを表立っては「達郎 」と呼んでいる[ 66] [ 注釈 3] 。ほかに、砕けた場面では「たっつぁん (達っつぁん)」と呼ぶことも多い[ 67] [ 注釈 3] 。これは、上述したアン・ルイスが「リンダ」を製作していた時に呼び始めたもので、それを気に入って竹内も使いだしたのが始まりであった[ 注釈 3] [要出典 ] 。TOKYO FM 『山下達郎のサンデー・ソングブック 』「納涼夫婦放談 Part2」(SSB #1401。2019年8月25日放送)で夫婦共演した際、山下は「周りに人が多いと『たっつぁん』になる」と分析してみせたが、竹内は特に法則は無いと答えた[ 67] 。もっとも、家での呼び名は全然違っていて、それは秘密だと言う[ 67] [ 注釈 3] [要出典 ] 。少なくとも「たっちー」ではない[ 67] [ 注釈 3] とのこと[要出典 ] 。
竹内の楽曲で山下が一番好きなのは「純愛ラプソディ 」だという。二人とも話すのが大好きな性格なので、二人で家にいる時は音楽のことや雑多な日々の事柄などを一日中しゃべっている[ 20] [要出典 ] 。
互いの音楽的な好みが微妙に違うことが時として作品に現れることがある。一例として山下が詞・曲ともに竹内に提供した『Morning Glory 』では、竹内の好みと希望が反映された海外のミュージシャンによるAOR調の編曲が、山下の好みと異なったことと、竹内の希望でメロディーを変えた部分もあったことから、アルバム『FOR YOU 』で自身がイメージした編曲のセルフカバーを発表した。また竹内が作詞・山下が作曲の『忘れないで 』は山下が歌唱したが、当初の歌詞に対する「彼女自身が歌うといいんだけど、僕が歌うと全然ダメで」という山下の要望から作詞をやり直したという。
竹内の楽曲のサブスクリプション 配信を開始した際には、自らの楽曲では基本的に行わない方針としている山下も協力的な姿勢を取り、音質などについても監修した。
竹野屋
「竹野屋(たけのや)」は屋号 で、旅館の名前は「竹野屋旅館」。1877年 (明治10年)の創業時から現在地にある[ 9] 。「竹内繁蔵 」は竹野屋の当主が代々襲名 してきた名跡 で、父親は「四代目当主」として「四代目竹内繁蔵」を名乗り、竹内が高校2年時から大社町 町長 を15年間務めた[ 9] 。
2014年 発売のアルバム『TRAD 』のディスクジャケット の写真は、竹野屋旅館の階段で撮影したものであり、現場に案内板が設置されている。館内には、「縁の糸 」の曲名と歌詞および「愛しきわが出雲」の歌詞を表した書 (書道 作品)が展示されているが、これらは母親の手による作品である。
ディスコグラフィ
シングル
アルバム
オリジナル・アルバム
ベスト・アルバム
カバー・アルバム
ライブ・アルバム
ボックス・セット
コンピレーション・アルバム
非公認ベスト・アルバム
映像作品
発売日
タイトル
規格品番
順位
登場週数
2020年 11月18日
souvenir the movie 〜MARIYA TAKEUCHI Theater Live〜 (Special Edition)
DVD:WPBL-90558〜9Blu-ray :WPXL-90242〜3
1位
32週
参加作品
発売日
曲名
収録作品
1978年 3月
ハリウッド・カフェ(作詞:大貫妙子 /作曲:竹内マリヤ/編曲:岡田徹 )[ 注釈 20]
Various Artists「ロフト・セッションズ VOL.1~フィーチャーリング・フィメール・ヴォーカリスツ」
1978年 3月
8分音符の詩(作詞:松本隆 /作曲:鈴木茂 /編曲:細井豊 )[ 注釈 20]
Various Artists「ロフト・セッションズ VOL.1~フィーチャーリング・フィメール・ヴォーカリスツ」
2021年11月4日
Watching Over You(杏里 とのユニット『Peach & Apricot』の配信シングル「Watching Over You」に収録[ 69] 。
タイアップ
受賞歴
1979年 - 銀座音楽祭”グランプリ”、新宿音楽祭 ”金賞”、日本歌謡大賞”新人賞”、日本レコード大賞”新人賞”
1990年 - 第32回日本レコード大賞”最優秀ポップス・ボーカル賞” ”作詩賞”(『告白』日本テレビ系「火曜サスペンス劇場」主題歌)
1993年 - 第35回日本レコード大賞”アルバム大賞” ”ベスト・アルバム賞”(アルバム「Quiet Life」)
1998年 - 第19回ザテレビジョンドラマアカデミー賞 主題歌賞(『カムフラージュ』、ドラマ『眠れる森 』主題歌)
2007年 - 第24回ベストジーニスト賞”特別賞”
2014年 - 第56回日本レコード大賞”最優秀アルバム賞”(アルバム「TRAD」)
2015年
第7回CDショップ大賞「マエストロ賞」
特別功労者として出雲市より表彰
第6回岩谷時子賞
2019年
第69回芸術選奨 文部科学大臣賞(大衆芸能部門)
第61回日本レコード大賞”特別賞”
楽曲提供
太字 は、竹内まりや本人によるセルフカバー が発表されている楽曲を指す。
メディア出演
デビュー直後は数多くの音楽番組 やその他様々なジャンルの番組に出演していたが、1981年 に活動を一時休止した後はメディア露出が非常に少なくなった。ただ、夫・山下達郎 と異なり、テレビ番組 やミュージック・ビデオ では顔を見せている。
ラジオ
音楽番組
NHK紅白歌合戦出場歴
年
放送回
回
曲名
備考
2019年
第70回
特別企画(初)
いのちの歌
竹内まりや×第70回紅白 「未来へつなぐ命のメッセージ」特別企画。 東京都渋谷区・NHK放送センターCT-102スタジオからの中継。
テレビ番組
テレビドラマ
自著
脚注
注釈
Googleマップ
出典・参考文献
参考文献
関連文献
関連項目
外部リンク
シングル
RCA / RVC MOON / ALFA MOONMOON / MMG MOON / east west japan MOON / WARNER
アルバム
RCA / RVC
MOON
その他
LOFT SESSIONS Vol.1(1978年)
関連項目
カテゴリ
シングル
オリジナル
70年代
80年代
90年代
90年 91年 92年 93年 94年 95年 96年 98年 99年
00年代
10年代
20年代
配信
アルバム
スタジオ
ベスト
企画
ア・カペラ サウンドトラック レア音源集 ボックス・セット ライブ その他 コンピレーション
楽曲 プロデュース ラジオ
関連
カテゴリ
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注釈
第1回 から第10回 までは制定なし。第12回 は発表なし。第32回 から第34回 までは演歌・歌謡曲、ポップス・ロックの2部門に分けて発表 (ただし第32回に限り演歌・歌謡曲、ポップス、ロックの3部門に分けて発表した)。
第1回(2009年) 第2回(2010年) 第3回(2011年) 第4回(2012年) 第5回(2013年) 第6回(2014年) 第7回(2015年) 第8回(2016年) 第9回(2017年) 第10回(2018年) 第11回(2019年) 第12回(2020年) 第13回(2021年)
その他各賞
ニューブラッド賞 リビジテッド賞 ライブパフォーマンス賞 ベスト盤アルバム賞
第1回 (2009年) - 第13回 (2021年) カテゴリ