日本の国際関係 (にほんのこくさいかんけい)では、日本 と主要な国家 ・国際機関 との関係について述べる。第二次世界大戦 終結以降から現在までの日本の国際関係 は、サンフランシスコ講和条約 (1951年 〈昭和26年〉9月8日 署名、1952年 〈昭和27年〉4月28日 効力発生)および、各国との賠償・補償条約を経て再構築されたものである[ 3] 。
アメリカ と東アジア 近隣諸国との外交関係を重要視することによって、世界との関係を維持している。
BBCワールドサービス やピュー・リサーチ・センター が定期的に実施している世界各国を対象とした対他国感情に関する調査によれば、調査対象国における対日・対日本人感情は好意的な回答を示しており、日本は、世界に対して良好な影響を与えていると評価されている。一方で、中国 と韓国 では日本を肯定的に捉える回答より、否定的に捉える回答が多い傾向にある。
各国との関係
地域協力・地域間協力
東アジア
東アジア では古来、地理的に近い中国や朝鮮などを中心に外交が行われていた。日本は儒教 ・漢字文化圏 の一角であり、伝統的な文化の中には雅楽 、水墨画 、陶磁器 、書道など東アジアをルーツに持つ物が多い。明治以降、西洋文化を取り入れて発展した日本の文化が逆に東アジアに伝播した。欧米を始めとする世界中との外交が盛んになるのも、明治維新以降である。かつて日本領であった韓国や台湾は、現在でも重要な貿易相手である。一方、北朝鮮に対しては日本は国家承認しておらず、国交も無く経済制裁を行っている。日本、韓国、台湾はそれぞれアメリカ軍と同盟関係にあり、相互に緩やかな協力関係にある。一方、北朝鮮と中国は同盟関係にあり、中国とロシアも協力関係にある。
中華圏
中華人民共和国
中華人民共和国 : 日本は1972年日中共同声明 及び1978年日中平和友好条約 締結に伴い、中華人民共和国 との国交を正常化した。
1979年に開始されたODA は、有償資金協力(円借款)を約3兆1,331億円、無償資金協力を1,457億円、技術協力を1,446億円、総額約3兆円以上を、中華人民共和国 に実施した。日本の 全ODA でもジブチ共和国 と並んで国別のトップクラスである。
また対中国へのODAは約3兆円と公表されているが、それは外務省 関係の公的な援助額の数字であり、財務省 など日本の他機関の援助額を総額すると、6兆円を上回る額となることや[ 4] 、中国やミャンマー などの非民主的国家に対するODAは、大綱の「開発途上国における民主化の促進、基本的人権及び自由の保障状況に十分注意を払う。」という項目に違反しているという批判がある。
改革開放 政策の後、経済的な成長を遂げて多くの日系企業が生産拠点を持ち、2006年 (平成18年)より貿易総額でアメリカを上回って最大の貿易相手国となった[ 5] 。靖国神社問題 に関連して関係が悪化した。日本では2005年の中国における反日活動 なども盛んに報道され、2008年 (平成20年)6月、アメリカの民間調査機関ピュー・リサーチ・センター の調査では、中国を好ましくないと答えた割合が84%(前年比17%増)となり、調査した24カ国の中で最も高かった。日本人の中国への旅行者も減少し、一方、中国では前年比から9%減少したがそれでも69%が日本を好ましく思っていないという調査結果となり、依然として両国民が相互に反発していることが明らかとなった。中国の報道は中国共産党の統制下にあり、一般国民に日本からのODAや謝罪などが周知されているとは言いがたいが、四川大地震に際しての国際緊急援助隊の救援活動など中国人からの感謝の意が表れる出来事もある。2010年 (平成22年)以降、経済規模で日本を抜いて成長し無視できない存在となっている。なお、以下のように領有を巡る領土問題 等も抱える。
日中間の排他的経済水域
1.平湖ガス田 2.断橋ガス田 3.天外天ガス田 4.春暁ガス田 5.日本が主張するEEZ境界線 6.中国が主張するEEZ境界線
中華人民共和国 (中国)との間における、東シナ海 で両国が主張する排他的経済水域の範囲の違いに起因する。日本政府は両国の国境の中間線を境界線として主張し、中国はユーラシア大陸の大陸棚部分を自国の領域と主張する。国際的には日本の主張が優勢であるが、中国と同様の主張をする国も存在しており、現在は平行線を辿る。近年、この問題が重要化したのは、この海域の地下に豊富な天然ガス の存在が明らかになったためである。中国は天然ガスを採掘するプラント(春暁ガス田)を日本が主張する境界の近辺(中国側)に建設するなど強硬な姿勢を取る。これに対して日本は日本側の資源も採掘される可能性があるとして抗議し、この海域での試掘権 を設定し、日本の企業が取得した。日本が国際司法裁判所 に判断を委ねようとする立場なのに対して、これに同意しない中国は両国での共同開発を提示するが日本もこれを中国に有利な条件と認識するなど依然、解決の糸口が全く見えない。
尖閣諸島 (中国名:釣魚台列島など)
現在、日本が実効支配するが中華人民共和国(中国)および中華民国 (台湾)が領有を主張する。上の経済水域の問題や中台間の問題も絡み、複雑化の様相を呈する。1970年代の初頭に東シナ海で天然ガスが発見されて以降、表面化した。中台に対抗し、度々、日本の右翼団体が上陸して灯台を建設(現在、日本政府が管理)するなどした。2005年 (平成17年)、台湾の漁民が海上保安庁 による取締に対して海上で抗議行動 を行った。2010年には尖閣諸島中国漁船衝突事件 が発生している。
この他にも、沖ノ鳥島 については中国との間で見解が対立する。国連海洋法条約121条1項に基づき「島」でありかつ「排他的経済水域および大陸棚を有する」とする日本に対し、中国は日本の領有を認めながらも2004年 (平成16年)頃から国連海洋法条約121条3項に基づき、「島」ではあっても「排他的経済水域および大陸棚を有しない岩礁」に当たると主張し、日本の排他的経済水域 を認めない立場である。
中華民国
中華民国 :
1972年 の日中共同声明 以降、日本は中華人民共和国を正当な国家として公式に認定し、かつ中華人民共和国の政治的主張(いわゆる「一つの中国 」)に配慮し台湾 を独立した国家とはみないことを約束した。その一方で台湾は、かつて日本が統治時代 に行ったインフラ 整備などをはじめとする近代化や、対中国の観点から日本に対して肯定的なイメージを持っている。
上記の理由から2024年 現在も台湾を国家として承認しておらず、双方ともに大使館を配置しない代わりに民間の利益代表部 を置く。第二次世界大戦後は国共内戦 で共産党 軍に敗北した中国国民党 が台湾を支配する。
与那国島 上空の防空識別圏
与那国島 の西2/3が、沖縄のアメリカ統治期 に東経123度線に沿って設置された防空識別圏(ADIZ、アディズ)を引き継いでいるため、中華民国(台湾 )の管理下にある。現在、両国の関係が良好であるために情報の交換もスムーズだが、台湾有事 において防衛上の重要な問題となる可能性が高い。
2005年 (平成17年)末から2006年 (平成18年)にかけて台湾が防空識別圏から与那国島を外して運用していた事も判明しているが、特に両国で取り極められた訳でもなく曖昧なままである。
朝鮮
大韓民国
狩野安信 『朝鮮通信使』大英博物館 蔵。1655年 作。
朝鮮総督府 庁舎。1929年 撮影。
ソウル地下鉄 の車両に張られた日本製品不買運動 のステッカー。
防衛省 が公開した韓国海軍レーダー照射 の現場映像。P-1 撮影。
韓国 : 古くから、日本は朝鮮半島 に成立した歴代政権とは一定の交流を維持し続けている[ 6] 。特に古代 においては日本の領域が未確定だったこともあり、百済 が滅ぼされたあとは朝鮮半島 進出や統一を果たした新羅 の強大化を防ぐ意図から白村江の戦い が巻き起こった[ 7] [ 8] 。新羅 の後、朝鮮半島 全域に支配を広げた高麗 とも貿易関係を維持し[ 9] 、次の李氏朝鮮 とは初期こそ倭寇 を背景に起こった応永の外寇 および豊臣秀吉 が大陸進出を狙って起こった文禄・慶長の役 などで軍事衝突しているが[ 10] [ 11] [ 12] 、江戸幕府 成立以後は朝鮮通信使 が日本を訪問するなど安定した関係が築かれた[ 13] 。なお、朝鮮への玄関口としての役割を果たしたのは対馬 で、応永の外寇 の後に結ばれた嘉吉条約 により宗氏 はその利権をほぼ独占し鎖国体制下 でも朝鮮との貿易を維持した[ 14] 。
1875年 江華島事件 が発生し[ 15] 、翌1876年 には日本 と不平等条約 である日朝修好条規 を締結[ 16] 。これにより清 の属国から脱して近代化 を目指す風潮が高まり、日清戦争 で大日本帝国 が勝利したことが決定打となって朝鮮は大韓帝国 として自主独立を果たした[ 17] 。しかしその後、大韓帝国 に対する指導権を巡って大日本帝国とロシア帝国 の間で日露戦争 が勃発し[ 18] 、日本はこれに勝利すると第二次日韓協約 で韓国統監府 を設置し大韓帝国 を保護国化[ 19] 。1910年 には日韓併合条約 の締結により朝鮮は日本に併合された[ 20] 。日本の朝鮮統治 については、学校の設置や識字率 の向上、都市部を中心にインフラ が整備されたことなど近代化 をもたらした側面があった一方で[ 21] 、朝鮮語 (韓国語)の軽視や創氏改名 、徴用工 や慰安婦 などについてその真実性や「解決済みか否か」の認識を巡って現在でも様々な議論がある[ 22] 。
戦後 、朝鮮半島 は日本の支配からは脱したものの、北側は北朝鮮 、南側は大韓民国 に分断された。日本は同じ資本主義 を標榜する韓国の側に立って朝鮮戦争 中には掃海部隊 や港湾労働者を派遣したり[ 23] 、日本国内で韓国軍 の軍事訓練を受け入れるなどして韓国を支援したが[ 24] 、1952年 には韓国が李承晩ライン [ 注釈 1] を一方的に設定し[ 25] 、竹島 (韓国名・独島)[ 注釈 2] を占拠したことによって竹島問題 が発生している[ 26] 。冷戦期には日本に潜入した韓国の工作員 によって新潟日赤センター爆破未遂事件 や金大中拉致事件 などの事件が起こされている[ 27] [ 28] 。
米韓同盟 のもと李承晩 独裁政権打倒後 も歴代の親米軍事政権が独裁 を敷き、1965年 には日韓基本条約 を締結して国交樹立が遂げられた一方で積極的に反日教育 と親日派 の粛清を行ってきた[ 29] [ 30] 。ただし政権によってその程度は異なっている。民主化後初の文民政権であった金泳三 政権は朝鮮総督府 の爆破解体など反日 を強くアピールした一方で[ 31] 、金大中 政権では日本の大衆文化が自由化されて日本への親近感を持つ人々の増加傾向も見られた[ 32] 。またこの時期は日韓共催でワールドカップ が開かれ、両国関係の雪解けが期待された[ 33] 。しかし盧武鉉 政権で近隣諸国に強硬な外交を行い、日本との領土問題や歴史問題にも強い姿勢で臨み、対日外交戦争 を唱えて国策としての反日運動を活発化させ[ 34] 、一部の国会議員が対馬 の領有さえ主張し始めた[ 35] 。李明博 政権では前政権で悪化した近隣諸国との関係を修復し、日本にも「謝罪を要求しない」と明言するなど比較的穏健な姿勢で臨む方針を当初は見せたが[ 36] 、知的財産 や漁業権 の侵害や竹島問題 など根本的な改善の兆しは見えていない。そののちの朴槿恵 政権は日韓問題 における韓国政府 の立場を堅持しつつも知日的な姿勢を展開し[ 37] 、日韓FTA締結にも前向きであった[ 38] 。
このように複雑な日韓問題 を抱えながらも、両国はともに先進国 であり民主主義 や資本主義 、自由主義 などの理念を共にしており、友好国としての側面もある[ 39] 。経済的には互いに重要な貿易相手国であり、2020年 の対日輸出は輸出全体の4.9%、対日輸入は輸入全体の9.8%を占めていた[ 40] 。中国も含めて日中韓自由貿易協定 の締結に向けた交渉が進められている[ 41] 。2015年 までは日韓通貨スワップ協定 も結ばれていた[ 42] 。また韓国 に進出している日本企業 は400社近いが[ 43] 、一方で反日運動 の一環として日本製品不買運動 がたびたび発生しそれが経済協力の障壁にもなっている[ 44] 。文化の面ではK-POP や韓国ドラマ など韓国の大衆文化 が日本で流行する韓流 現象があり、日本人の対韓イメージに影響を与えている[ 45] 。これに伴い、韓国での日本大衆文化の流入制限 も徐々に制限を緩和しつつある[ 46] 。安全保障 面では北朝鮮問題 などがありアメリカ を介した準同盟に近い状態であるが[ 47] 、韓国軍の艦艇によるレーダー照射問題 や南スーダン における弾薬提供問題[ 48] [ 49] 、日韓間の軍事情報 の保護を目的とした日韓GSOMIA が一時破棄寸前になるなど等のトラブルも多い[ 50] [ 51] 。
竹島領有権問題 (韓国・朝鮮名:独島)
竹島(韓国名:独島)の位置
島根県 の隠岐島 から北西約157km、韓国の慶尚北道 ・鬱陵島 から約92kmに位置する、2つの岩礁からなる小島について日韓が領有を主張(韓国を北朝鮮も支持)してしばしば対立することがある[ 52] 。
韓国併合 以前、大日本帝国 と大韓帝国 と、竹島 がどちらの領土だったかを巡る議論に帰する[ 53] [ 54] 。日本の国内法上、1905年 (明治38年)の閣議決定 ・島根県 告示によって編入された[ 55] 。これについて韓国は「秘密裏に、また強制的に行われたものであり、法的根拠は持たず無効である。」と主張するが[ 56] 、日本は「国際法に則った適法な手続きがなされたものであり、また新聞などでも報道されており、秘密裏に行われたとの指摘は当たらない」と主張する[ 57] 。韓国は独立から間もなく李承晩ライン を一方的に設定し[ 26] 、その内に入った日本の漁船・漁民 を拿捕して釜山 収容所 に抑留したのみならず、第一大邦丸事件 など漁船を相次いで銃撃し多数の死傷者を出した[ 58] [ 59] 。その後の日韓国交正常化交渉で李承晩ライン の不当性や竹島の領有を日本が強く主張し、1965年 (昭和40年)に李承晩ライン は廃止された。しかし1954年 (昭和 29年)7月以降、韓国海軍 が占拠し現在は独島警備隊 が引き継いで駐屯する[ 26] [ 60] [ 61] 。これに対して日本も韓国による不法占拠として抗議し続け、国際司法裁判所 への付託を提案したが、韓国はこれに同意しなかった[ 62] 。韓国民にとって独立の象徴と考えられていること[ 63] 、周辺の海域が豊かな漁場であること[ 64] 、また莫大なメタンハイドレート や海底油田 の埋蔵が推測されることなどが解決を難しくしている[ 65] 。
日本海呼称問題 (韓国・朝鮮名:東海)
1815年 作成のイギリス の地図には「Sea of Japan (日本海)」と表記している。
日本海 の呼称については、日本が主張する日本海が国際的に認知されている一方で韓国は、「東海(동해、トンヘ)」を主張し名称を変更ないし併記するよう国際社会 に求めており[ 66] 、これを巡って日韓の対立が生じている[ 67] 。この問題は1992年 に開催された第6回国際連合地名標準化会議 において初めて国際社会 に提起された[ 68] 。また黄海 を「西海」、東シナ海 を「南海」に変更すべきとは主張や活動はしていないことから、これは日本海のみを標的にしたものであると分析されている[ 69] 。韓国 の主張は「国際的な海に特定の国の名前を付けるのは相応しくない」というものであり現在では「日本海」と「東海」の併記とすべきという姿勢であるが[ 70] 、最終的には「日本海」の呼称を廃止して「東海」に一本化することを目指しているとされ[ 71] 、官民一体となって変更推進活動が実施されている[ 72] 。また韓国は「日本海の名称が支配的になったのは、20世紀 前半の日本の帝国主義 ・植民地主義 の結果である」との主張も展開しており[ 73] 、15世紀 から19世紀 にかけて古地図における名称も一つの争点になっている。アメリカ合衆国 やイギリス [ 74] [ 75] 、フランス [ 76] 、ドイツ [ 77] 、ロシア などが古地図調査を実施しており[ 78] 、いずれも日本海が歴史的に定着したものであることを明らかにしている[ 79] 。一方で韓国も独自調査を実施し、朝鮮海ないし東海が優勢であったと発表した[ 80] 。韓国 の主張に対し日本政府 は一貫して「日本海」が国際的に認知された地名であり韓国の主張は根拠とないものとしていて[ 81] 、2021年 には韓国の主張に対抗する動画を公開した[ 82] 。国際連合 や国際水路機関 などは一貫して日本海を表記しているが、解決の糸口は見えていない[ 83] [ 84] 。
従軍慰安婦問題
旧日本軍の慰安婦問題 は1980年代 ごろから議論され始め、特に日韓間においては歴史認識や賠償の有無で対立がある[ 85] 。韓国は数万人の慰安婦 が日本軍 によって強制連行 され売春させられたとし、日本政府 に法的責任がある立場を堅持している[ 86] 。1991年 には金学順 が韓国で初めて元慰安婦として名乗り出て自らの体験談を語り[ 87] 、これを契機として日本では釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟 や在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求事件 など慰安婦関連の裁判が巻き起こった[ 88] [ 89] 。2011年 にはソウル の在韓日本大使館 前に慰安婦像 が設置された[ 90] 。一方で、日本は1990年代 に軍の関与を部分的に認め謝罪する河野談話 が発表された[ 91] 。この談話以来、歴代の総理大臣 が謝罪を述べるとともにアジア女性基金 が償い事業を通じて元慰安婦に「償い金」を支給するなど支援を実施[ 92] 。2015年 には慰安婦問題日韓合意 が締結され[ 93] 、最終的かつ不可逆的な解決が確認されている[ 94] 。この合意の旗艦事業として日本は資金10億円を拠出し、和解・癒やし財団 が結成された[ 95] 。しかしこの合意以後も韓国 は追加支援や謝罪を要求し[ 96] [ 97] 、釜山 には新たに慰安婦像 が設置され[ 98] 、文在寅 政権は和解・癒やし財団 をして合意の白紙化を進めた[ 99] [ 100] [ 101] 。これらについて日本は合意違反であるとの抗議をしている[ 102] 。またそもそも慰安婦 が強制連行 されたかどうかについても明確は物的証拠は見つかっておらず[ 103] 、河野談話 でも元慰安婦女性の証言の裏付けが行われていないため[ 104] 、いわゆる「性奴隷 」であったかどうかについては様々な議論がある[ 105] [ 106] [ 107] [ 108] 。そのことが問題を複雑化させており、慰安婦を巡る日韓対立の解消のめどは立っていない。
徴用工訴訟問題
軍艦島 の世界遺産 登録は、徴用工問題の一つの争点となった。
徴用工問題 [ 注釈 3] とは、第二次世界大戦 中に日本の統治下にあった朝鮮 での日本企業の募集や朝鮮総督府 が各地方自治体にノルマを化して人員をあつめた官斡旋、総督府 が対象者個人に直接「徴用令状」を発給して労務者をあつめた徴用 等により動員されたという元労働者及びその遺族による一連の訴訟問題である[ 109] [ 110] [ 111] 。1965年 の日韓請求権協定 によって戦後補償 は「完全かつ最終的に解決した」とされていたが[ 112] 、2005年 の盧武鉉 政権から韓国政府 は徴用工犠牲者について「韓国政府に道義的責任がある」と主張し始めたことに端を発する[ 113] 。2012年 には韓国大法院 が日本企業の徴用者に対する賠償責任 を認める判決を下し[ 114] 、それを契機に新日本製鉄 [ 115] 、三菱重工業 [ 116] 、不二越 [ 117] 、IHI など約70社に対する徴用工訴訟が相次いだ[ 118] 。2018年 には、大法院 が新日本製鉄 に対し韓国人4人へ1人あたり1億ウォン(約1000万円)の損害賠償を命じている[ 119] [ 120] 。このような韓国の動きに対し、日韓請求権協定 で徴用工 への補償は「解決済み」としてきた日本は強く抗議しており[ 121] [ 122] 、国際司法裁判所 への提訴も視野に入れているとされる[ 123] 。問題は文化面にも波及しており、軍艦島 や佐渡金山 では朝鮮人労働者 が強制労働 に従事させられていたとして韓国は、それらの世界遺産 登録に強く反発している[ 124] [ 125] 。一方で労働や連行の強制性については議論がある[ 126] [ 127] 。また、2021年 には新日本製鉄 に賠償を命じた2018年 の大法院 の判決を、韓国の下級裁判所は日韓請求権協定 や国際法 に違反するとして否定しており[ 128] 、徴用工への賠償請求については韓国国内でさえ意見が分かれている[ 129] 。
北朝鮮
北朝鮮 : 日本と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との間には安全保障、人権、主権侵害等の深刻な問題を多く抱えており、また国交も存在しない。
北朝鮮は、韓国併合 に対する評価や賠償問題・請求権問題、いずれについても決着していないとする立場である。日本政府は日韓基本条約 に基づいて韓国政府のみが朝鮮半島の正統な政府であるとの立場である。なお、賠償問題も韓国との条約によって解決済みとの立場である。2002年 の日朝首脳会談では、賠償権を相互に放棄し、日本が北朝鮮へ経済協力を行う方法で合意したと発表され、または長らく認めてこなかった拉致問題 を同会談において公式に認めたが、その後は「拉致問題は解決済み」とし、日本政府の態度を硬化させた。その後、国交正常化交渉の停滞を招いている。背景には、北朝鮮による日本人拉致問題 や不審船事件 などに対する日本の世論の反発や北朝鮮核問題 などで孤立を深める北朝鮮の現状がある。日本はこれらを受けて、経済制裁 を北朝鮮に行った。北朝鮮は核カードを使ってアメリカからテロ支援国家 指定の解除を引き出した。
アメリカは北朝鮮が核拡散防止条約 や国際原子力機関 の協定を守るように働きかけており、日本もこうしたアメリカの立場を強く支持している。1998年 8月31日 、テポドンミサイルの実験を行って日本の大気圏内上空を通過するという安全保障の危機において、北朝鮮の核の開発・使用を凍結するために朝鮮半島エネルギー開発機構 (KEDO)や米朝枠組み合意 への支援を続けた。アメリカ、日本、韓国はロシア連邦 を加えた六カ国協議 で緊密に協力して対北朝鮮政策について政府レベルで話し合いを続けてきた。
現在、日本との交渉の中でいくつかの議題を話し合うことを拒否しているため、経済制裁 を科して日朝国交正常化交渉を続けることも中断している。
モンゴル
東南アジア
東南アジア 諸国とは基本的に友好関係を構築しており、タイ 、フィリピン 、マレーシア など経済的にも文化的にも関係が深く、互いの国民に対する感情も良いとされる。
日本はこれら、各国との自由貿易協定 (FTA)の締結を模索している。自衛隊 のPKO としての派遣も、初の派遣がカンボジア へ、東ティモール へも派遣された。東南アジア諸国連合 (ASEAN)諸国との間で定期的に首脳会談を行い、関係を重視している。
この海域(特にマラッカ海峡 )は中東から輸入した原油の9割近くが通過するなど非常に重要なルートであるが、海賊が頻繁に出没する。その対策として、海上保安庁 が各国の沿岸警備隊 に対して指導・共同訓練を行っている。
インドネシア
日本軍 の訓練を受けるインドネシア独立派の若者。
マラリ事件 を起こす群衆。
2014年スマトラ島沖地震 でアチェ州 に派遣された自衛隊員。
インドネシア : 歴史的には17世紀 から交流が始まり、それは他の東南アジア諸国 と同じように朱印船貿易 によるものであった。その他、1764年 には船乗り の孫太郎 という人物が嵐に遭遇し漂流、ミンダナオ島 やスールー諸島 を経由してオランダ領東インド (蘭印、現・インドネシア )の南カリマンタン ・バンジャルマシン にたどり着いている[ 130] 。日本が幕末 にオランダ と通商関係のみならず国交も樹立して明治維新 後に開国路線を全面的に推し進めるようになってからは蘭印へ順調に日本人が進出し[ 131] 、1908年 には蘭印の首府 バタビア (現在のジャカルタ )に日本領事館が設置されている[ 132] 。その後、1920年 にはスラバヤ 、1928年 にはメダン 、1937年 にはメナド 、1941年 にはマカッサル に領事館 が開設されており、特に大都市を中心に日本人が多く日本人会が結成されていた[ 133] 。
日本占領下時期 には郷土防衛義勇軍 がインドネシア の若者に武器を提供したり戦闘技術を教え、彼らはのちのインドネシア独立戦争 で活躍するなど、日本軍 がインドネシア の独立・民族意識形成を促した側面があった一方[ 134] 、多くの人々が「ロームシャ 」として強制的に徴用された事実もある[ 135] 。戦後は一部の残留日本兵 がインドネシア独立戦争 に参戦し[ 136] 、死後は独立への貢献が認められカリバタ英雄墓地 に埋葬された[ 137] 。このため戦中や戦後のインドネシア の対日感情は複雑なものがあったが[ 138] 、日本とインドネシアがそれぞれ独立を達成した後の1958年 には平和条約 が締結されている[ 139] 。
1960年代 以後は、日本の自動車メーカー がインドネシア 市場に進出した[ 140] 。このことはインドネシア が日本経済 に支配されているとの認識を生み出し、反日運動 の盛り上がりにつながった[ 141] 。1974年 には大規模な反日運動「マラリ事件 」が起こっている[ 142] [ 143] 。このため福田赳夫 首相(当時)が文化的交流を行い経済支配を目指さないものとする「福田ドクトリン 」を表明し[ 144] 、これは対日感情の改善に結び付いている[ 145] 。
現在では有数の親日国 として知られ[ 146] [ 147] 、またG20 やAPEC にともに参加するなど多くの面で立場を同じにしている[ 148] [ 149] 。経済的な繋がりで特筆すべきはLNG貿易であり、日本にとってインドネシア は常に液化天然ガス の主要供給国であることから死活的に重要な国である[ 150] 。これに関連して多くの日本企業 がインドネシア に進出し[ 151] 、また政府開発援助 も活発に行われていてその分野はハードインフラ整備に加え、統治能力支援や法整備支援などソフトインフラ整備の支援にも及ぶ[ 152] 。2004年 のスマトラ島沖地震 ではオーストラリア 、ドイツ に次ぐ金額の緊急支援を実施し[ 153] 、アチェ州 には海上自衛隊 の艦隊を派遣している[ 154] 。人的交流も多く、在日インドネシア人 はおよそ6万6千人で在日外国人 の上位10位以内に長年位置している[ 155] 。
カンボジア
『祇園精舎図』として残るアンコールワット の実測図。
カンボジア : 1632年 には森本一房 がカンボジア のアンコールワット を訪れ、その見取り図を日本に伝えている[ 156] 。第二次世界大戦 中の1940年 には日本軍が進駐 し[ 157] 、1945年 には傀儡政権のカンプチア王国 が建てられた(日本占領時期のカンボジア )[ 158] 。ただし本格的な交流は戦後 からで1953年 にカンボジアが独立すると国交が樹立された[ 159] 。
1980年代 後半からはカンボジア内戦 に疲弊したカンボジアに対し積極的な和平・復興支援を進めており[ 160] 、1992年 には日本の自衛隊 が国際平和協力法 に基づいてカンボジアに派遣 され[ 161] 、治安維持や地雷撤去などを行った[ 162] 。この派遣では警察官 の高田晴行 が殺害されるなどの事件が起き[ 163] [ 164] 、後の自衛隊派遣 における武器携帯の許可に繋がっている[ 165] 。当時、PKO に参加した高山良二 も自衛隊 を退官後、国際地雷処理・地域復興支援の会 を立ち上げてカンボジア の地雷撤去に貢献し続けている[ 166] [ 167] [ 168] 。文化の面ではクメール・ルージュ によって破壊・弾圧された仏教の施設や遺跡の復興に日本が大きく貢献している[ 169] [ 170] 。
このような貢献が奏功し、現在では日本にとって友好国である[ 171] 。経済的な繋がりを緊密化すべく障壁の撤廃が順次進んでおり、2007年 には日・カンボジア投資協定 が[ 172] 、2015年 には日・カンボジア航空協定 が結ばれた[ 173] 。貿易面でもカンボジアにとって日本は主要な取引相手であり、2021年 の対日輸出の構成比は6.1%で第4位、対日輸入の構成比は3.4%で第7位である[ 174] 。経済援助も多数実施されていて2001年 にはおよそ60億円の供与でカンボジア初のメコン川 を渡る橋「きずな橋 」が建設されるなど[ 175] [ 176] 、OECD の中では日本は最大のカンボジア支援国となっている一方で、近年は中国の存在感も強まっている[ 177] 。
シンガポール
日本軍 占領下のシンガポール 。
シンガポール : 現在は友好国として知られる[ 178] 。シンガポール の急速な経済発展に伴い1990年代 ごろから関係は緊密化し、2002年 には日本・シンガポール新時代経済連携協定 が発効された[ 179] 。これは、日本にとってもシンガポールにとっても初の自由貿易協定 である[ 180] 。シンガポールにとって日本は中国、アメリカ、マレーシア 、インドネシア などに次ぐ主要な貿易相手国でもあり、2020年 の対日輸出・対日輸出はともに全体のおよそ5%を占めた[ 181] 。日系企業 の進出も多く700社以上がシンガポール に拠点を置いており[ 182] 、35,000人を越える在留邦人 がいる[ 183] 。
歴史的な接触は1862年 に山本音吉 がシンガポール に移住したことに始まる[ 184] 。明治維新 以後の1870年代 にはからゆきさん を始めとして日本人 の移住が進んだ[ 185] 。第二次世界大戦 中の1942年 には日本軍 がシンガポール を陥落させ日本の軍政下 に入り、昭和時代に南方に獲得した島であることから「昭南島 」と名付けられ特別市が設置された[ 186] 。占領期間中にはシンガポール華僑粛清事件 や双十節事件 など日本軍による華僑 の殺害事件が発生し[ 187] [ 188] 、一方でマラヤ人民抗日軍 などが抗日運動を展開[ 189] 。戦後、日本人 は一時撤退するも1957年 にはシンガポール日本人会 が設置され[ 190] 、それ以降平和的な関係が築かれている[ 178] 。
タイ
タイ : 朱印船貿易 の拠点としてアユタヤ朝 支配下のタイ には14世紀 、アユタヤ日本人町 が形成された。その後日本が戦国時代 に入ると戦乱から主君を失った浪人が大量に出現し、当時ビルマ ・タウングー朝 からの軍事的圧力に悩まされていたアユタヤ朝 は浪人を傭兵として大量に雇い入れた。当地で活躍した山田長政 も傭兵の一人である[ 191] [ 192] 。結果、アユタヤ日本人町 は15世紀 から16世紀 にかけて最盛期を迎え、経済的・社会的な影響力を有した。その後、江戸幕府 が鎖国政策 をとったため交流は衰退していき[ 193] 、18世紀 ごろにアユタヤ日本人町 は姿を消した。
明治維新 を経た1887年 には「日暹修好通商に関する宣言」(日タイ修好宣言)が結ばれて正式な国交が成立した。これは、日本が東南アジア と結んだ初めての条約であった[ 193] 。1898年 には「日本暹羅修好通商航海条約 」を締結[ 194] 。タイは、日本同様に欧米列強 による植民地化 を免れた数少ないアジア国家であり、政尾藤吉 や安井てつ などはタイの近代化 に尽力し[ 195] 、また1932年 にはタイ立憲革命 が巻き起こっているがそれには駐シャム公使矢田部保吉 をはじめとする日本人の支援も背景にあった[ 196] 。第二次世界大戦 では枢軸国 とはされていないものの、日泰攻守同盟条約 を結んで日本軍が進駐 [ 197] [ 198] 、日本に対し協力的な姿勢を見せた[ 199] 。
戦後は日本の国際社会 復帰に尽力し、1963年 にはプミポン国王 が訪日[ 200] 。現代では親日国として知られ[ 201] [ 202] 、経済的に深い繋がりを有している[ 193] 。タイの国際貿易に占める対日割合は輸出9.8%、輸入13.4%(2020年 )であり中国に次ぐ主要貿易相手国となっている[ 203] 。また、日本のタイへの直接投資額は643億バーツ に上り、これはタイの全投資額の4分の1を占めた[ 203] 。2007年 には、日本にとってアジア三か国目となる経済連携協定 が結ばれた[ 204] 。人件費・製造コストの低さからかねてより日本企業の製造拠点が多く置かれていたが、近年では経済成長により消費市場への転換も見られる[ 205] 。タイ王室 と皇室 との関係も良好で[ 206] 、日本を訪れるタイ人 も増加している[ 207] 。2004年 のスマトラ島沖地震 では、自衛隊のタイ派遣 も実施された[ 208] 。
東ティモール
東ティモール : 第二次世界大戦 中の1942年 にはポルトガル軍 の抵抗も殆ど無いまま、ポルトガル領ティモール は日本軍によって占領されている[ 209] 。本格的な交流の開始は東ティモール 独立以後で[ 210] 、2002年 には平和的な独立を果たすための自衛隊東ティモール派遣 が[ 211] 、2006年 には国連東ティモール統合ミッション のため警察官派遣[ 注釈 4] がそれぞれ実施され[ 212] 、また現在でも安全保障上の交流がある[ 213] [ 214] 。貿易面での関係性は弱いものの、経済支援の面では日本はオーストラリア に次ぐ東ティモールの援助国である[ 215] 。
フィリピン
マニラ ・ディラオ広場 (英語版 ) にある高山右近 の像。
フィリピン : スペイン の植民地 となっていたフィリピン を拠点として、16世紀 にはフランシスコ会 やドミニコ会 が日本でキリスト教 の布教を進めている[ 216] 。豊臣秀吉 政権下では、スペイン との南蛮貿易 に代わってキリスト教の布教を伴わないフィリピンとの直接の朱印船貿易 が積極的に推し進められ[ 217] 、これを通して日本人商人が流入しマニラ には日本人町 が形成された
[ 218] 。しかし、江戸幕府 の鎖国政策 によりスペイン領フィリピン との交流は途絶え[ 219] 、キリシタン大名 として有名な高山右近 は国外追放を受けてフィリピンへと流れ着いている[ 220] 。
明治維新 以後は日本がスペインと国交を結んだことで交流が再開。フィリピンの宗主国がスペインからアメリカに変化すると1899年 に米比戦争 が起こるが、明治政府は武器弾薬を提供するなどフィリピン独立革命 の支援を実施している[ 221] 。1913年 にフィリピン第一共和国 が崩壊するとアルテミオ・リカルテ 将軍の亡命を受け入れた[ 222] 。第二次世界大戦 では日本に占領 され、フィリピン第二共和国 が傀儡として建国[ 223] 、戦後は第三共和制へと移行した。1956年 の日比賠償協定 が締結されて日本からフィリピンへの賠償金支払いが順次始まり[ 224] 、1960年 には日比友好通商航海条約 が調印されている[ 225] 。ただし、フィリピンの対日感情が改善しない影響で条約の批准は1973年 まで遅れた。
現在では一部を除き対日感情は大幅に改善しており、親日国の一つと見られている[ 226] 。その意識転換の大きな要因は莫大な開発援助で、日本は戦後賠償 を終えた後もフィリピンに対し、多数の開発援助を実施している[ 227] 。2019年 の対フィリピンの直接投資はシンガポール、中国、韓国に次いで大きく全体の5.1%を占めた[ 228] 。また主要な貿易相手国でもあり、フィリピンの国際貿易のうち対日割合は輸出15.1%・輸入9.4%といずれも第二位となっている[ 228] 。2008年 には日本・フィリピン経済連携協定 が結ばれた[ 229] 。経済的な繋がりの強さから人的交流も多く、在日フィリピン人 は在日外国人 として国籍別で第4位(2023年時点で32万人)の人口を擁する[ 230] 。情勢面での貢献も大きく、日本はフィリピン政府とイスラム過激派 モロ・イスラム解放戦線 との仲介を行った[ 231] [ 232] 。政治的にも東南アジア における重要なパートナーの一国とみなされている[ 233] [ 234] 。
ブルネイ
ブルネイ : かつては英領北ボルネオ であり、第二次世界大戦 中には英領ボルネオ作戦 で日本軍 が侵攻・占領した。占領期間中 にはブルネイ県が仮設され、農地開墾、病院建設、学校開設、教育制度づくりなどが推し進められた[ 235] [ 236] 。これらは独立後の速やかな友好関係成立に役立っている[ 237] 。戦後は主に石油 ・天然ガス 貿易で日本と結び付いており[ 238] 、特に液化天然ガス は1990年代 以来日本 にとって常に上位10位以内の供給国である[ 150] 。2007年 には日本・ブルネイ経済連携協定 が締結された[ 239] 。またブルネイ王室 と皇室 の関係も良好[ 240] 。安全保障上でも協力関係にある[ 241] 。
ベトナム
鎖国 前に日本人 が作ったとされるホイアン の橋。世界遺産 に登録された。
ベトナム : 日本とベトナム の接触は奈良時代 にまで遡る。734年 、遣唐使 判官として中国に渡っていた平群広成 が蘇州 を出発して日本に帰国する途中、嵐に見舞われ崑崙国 と呼ばれる国に漂着している。これはベトナム中部に興ったチャンパ王国 であると考えられている[ 242] 。一方でチャンパ王国の僧侶である仏哲 も日本に渡って平城京 に至り、林邑楽 を伝え聖武天皇 からの信頼も得ている[ 243] 。
16世紀 から17世紀 にかけては朱印船貿易 を通じて交流し、ホイアン には日本人町 が形成された[ 244] 。鎖国政策 により交流は一時途絶えたが、明治維新 を経た1905年 にはファン・ボイ・チャウ が反仏独立の支援を求めて来日し[ 245] 、さらには犬養毅 に人材育成の重要性を説かれたことで大日本帝国に青年を留学させる東遊運動 を興した[ 246] [ 247] 。フランス との関係悪化を恐れて日本は最終的には独立運動を支持しなかったものの、第二次世界大戦 中の1940年 には日本軍がフランス領インドシナ に進駐 している[ 244] 。戦後は第一次インドシナ戦争 で残留日本兵 の参戦が確認できる[ 248] 。
賠償金の支払いを契機として外交関係が再開し[ 249] 、南北統一後の1990年代 にはカンボジア・ベトナム戦争 を理由に実施されていた経済制裁 が解除され、以降友好国としての関係が続いている[ 250] 。経済的な結び付きも強く[ 251] 、ベトナムにとって日本は輸出入両方で第3位の主要貿易相手国であり[ 252] 、また最大の支援国でもある[ 253] 。2009年 には日本・ベトナム経済連携協定 [ 254] 、2014年 には日本・ベトナム原子力協定が発効している[ 255] 。在日外国人 のうち、在日ベトナム人 は2番目に多く全体のおよそ15%を占めている[ 230] 。在日留学生も6万人から7万人を推移し中国に次いで多く、現代の東遊運動 とも言われる[ 256] 。
マレーシア
日本軍 のマレー侵攻 。クアラルンプール で撮影。
マレーシア : 15世紀 時点で琉球王国 とマラッカ王国 には交易関係が成立していた[ 257] [ 258] 。ただし日本が本格的にマレーシア と交流を始めるのは明治維新 以後、日本とイギリスが国交を結んでからである[ 259] 。第二次世界大戦 中の1941年 にはマレー作戦 として日本軍が英領マラヤ に対し侵攻し[ 260] 、日本の統治下に入った[ 261] 。占領期間中は日本軍によりマレー人 やインド人 が優遇され、それが現在のマレー人 社会のマレーシア の原型となっている[ 262] 。一方で当時強い勢力を誇っていた華僑 はシンガポール 同様に差別・弾圧・粛清を経験して反日感情 が高まり[ 263] 、マレー半島 におけるマラヤ人民抗日軍 の拡大につながった[ 264] 。
戦後の1950年代 には国交が結ばれ、友好の基礎が確立された[ 265] 。1981年 には、第4代マレーシア首相 のマハティール・ビン・モハマド が日本を手本に国の開発を進める「ルックイースト政策 」[ 注釈 5] を導入[ 266] [ 267] 。政策の一環としてペトロナスツインタワー が建築されたが、ツインタワーのうち一棟の建設を担ったのは日本の建築会社ハザマ であった[ 268] 。現在でもマレーシア への経済支援や交流の強化という形でルックイースト政策 は継続しているが[ 269] [ 270] 、マレーシア の経済成長や日本 の影響力低下からマレーシア学生の日本留学の割合は減少している[ 271] 。一方で日本人 の新たな留学先としてマレーシア が注目される逆転現象も起きている[ 272] 。
現在では親日国・友好国の一つとして知られる[ 273] 。経済的にも結び付きが強く[ 274] 、2020年 のマレーシア の対日輸出は全輸出のうち6.3%、対日輸入は全輸入のうち7.7%を構成しており中国やシンガポール、アメリカなどに次ぐ主要貿易相手国である[ 275] 。特に液化天然ガス は1990年代 以来日本にとって常に上位10位以内の供給国であり[ 150] 、資源の面で死活的に重要な国でもある[ 276] 。これに関連して日本は主要なマレーシアの投資国であり[ 275] 、三菱商事 などがマレーシアのLNG開発プロジェクトに参入[ 277] 。2005年 には日本・マレーシア経済連携協定 も結ばれた[ 278] 。経済状態の良好さから有望な市場として日本企業 の進出も多く[ 279] 、2020年 時点で1,544社がマレーシア 進出を果たしている[ 280] 。マレーシア在住の日本人も3万人を越えており、在留邦人 としては比較的上位に位置する[ 281] 。また2020年 まで14年連続で「移住したい国№1」に選ばれるなど日本人の移住先としても人気が高い[ 282] 。
ミャンマー
イギリス による元日本軍人のビルマ抑留 は、劣悪な環境や強制労働 、人種差別 、不要な処刑など人道的な問題が議論されている。
ミャンマー : 20世紀 の初め頃にビルマ民族運動の先駆者であるウー・オッタマ (ビルマ語版 、英語版 ) が日本を何度か訪れているが[ 283] 、日緬両国の本格的な接触は第二次世界大戦 である。1942年 には日本軍 が当時イギリス に支配されていたビルマに侵攻 し占領した[ 284] 。日本占領下のビルマ では鈴木敬司 陸軍大佐 を機関長として南機関 が組織され[ 285] 、これは現在のミャンマー軍 の前身にあたるビルマ独立義勇軍 の創設を促し[ 286] 、1943年 には傀儡政権 としてのビルマ国 が独立した[ 287] 。一連の流れは戦後 のビルマ の独立意識醸成を促したとされる一方で[ 288] [ 289] 、カラゴン事件 など日本軍 による虐殺事件 も起きている[ 290] 。1945年 になると連合国 の支援を受けた反ファシスト人民自由連盟 による蜂起 が活発化して日本軍 が潰走し、日本はビルマにおける権益を喪失した[ 291] 。終戦後に連合軍によって行われた元日本軍人のビルマ抑留 は、人道的な見地から21世紀 になっても議論がある[ 292] 。
戦後それぞれ独立を達成した日本とビルマは1954年 に平和条約 と賠償協定を締結して[ 293] [ 294] 、国交を樹立。以降は友好的な関係が築かれ[ 295] 、三井物産 がミャンマー政府と共同開発したミンガラドン工業団地 はミャンマー初の国際規格の工業団地 で、日本企業 が数多く入居している[ 296] 。特に軍政 が終結した2015年 から軍政が再開される2021年 にかけては、日本にとって東南アジア で最も有望な投資先の一つがミャンマーであった[ 297] 。2020年 の直接投資も国別でイギリス に次ぐ第2位で、全体の13.7%を構成している[ 298] 。政治的には民主化 の指導者アウンサンスーチー が京都大学 客員教授として京都 に在住していたことがあるほか何度か訪日を実施しており[ 295] [ 299] 、日本の占領時代 を批判しつつも友好関係を維持する知日的な姿勢を展開し[ 300] 、京都大学 や龍谷大学 で名誉教授 の地位を得ている[ 301] [ 302] [ 303] 。文化面では文学 『ビルマの竪琴 』で知られる[ 304] 。
一方で2018年 に国連人権理事会 がミャンマー国軍 による「人道犯罪」の責任追及を目的とする独立機関設置を求める決議を採択したが、日本を含む7カ国は棄権した[ 305] 。2021年ミャンマークーデター でも日本は重大な懸念を表明したうえで、国軍に対してアウンサンスーチー 国家顧問の解放や民主的な政治体制の早期回復を求めた一方、「クーデター」や「制裁」への直接的な言及は翌年まで見送られた[ 306] [ 307] 。防衛大学校 がミャンマー国軍 の士官候補生を受け入れるなど独自の結び付きも維持している[ 308] [ 309] 。こうした背景にはミャンマー との友好関係や現在までの多大な援助があり[ 310] 、日本がクーデター後も引き続きミャンマー国軍との関係を維持している事実を以て人権団体から批判を受けることもある[ 311] [ 312] [ 313] 。
ラオス
東京都 渋谷区 代々木公園 で2019年 に開催されたラオスフェスティバル。
ラオス : 歴史的な接触は朱印船貿易 にまで遡り[ 314] 、キセル の火皿と吸い口をつなぐ竹の管「羅宇」は江戸時代 にラオス産の斑紋のある竹 を用いたことが由来と言われる[ 315] 。第二次世界大戦 末期の1945年 には、日本軍 が明号作戦 を発動してフランス領インドシナ の一部を構成していたラオス からフランス軍 を撃退[ 316] 。その後、ルアンパバーン朝 のシーサワーンウォン 国王は日本 の後ろ盾のもとラオス王国 の独立を宣言した[ 317] 。しかし日本の敗戦によりこれは撤回され、フランス の植民地 に回帰している。第一次インドシナ戦争 終結後は再びラオス王国 として独立を果たし、日本 と国交を樹立した[ 318] 。
現在では親日国の一つと見做されており[ 314] 、その背景には現在まで続く日本の経済支援がある[ 318] 。青年海外協力隊 が初めて国外に派遣された先はラオスであり、1965年 のことである[ 319] 。ただし経済的な関係はさほど強くなく、2020年 のラオスの対日輸出は構成比1%、対日輸入は構成比2%に留まっており、また直接投資も中国やタイと比べると少ない[ 320] 。新興国 として日本企業 の進出が2010年代 以降進んでおり[ 321] 、また2009年 にはヴィエンチャン にラオス日本人商工会議所 などが設置されるなど[ 322] 、段階的な発展の途上にある。政治的にはラオスは日本の常任理事国 入りや捕鯨 に関する立場を支持[ 323] 。またラオスの中等教育 では日本語 が第二外国語 として取り入れられている[ 324] [ 325] 。
南アジア
南アジア 地域には歴史的にインド文化圏 に属し、現代では世界最大の民主主義 国家で、将来の超大国になる可能性を秘めるインド をはじめとして、大きな経済的潜在力を持つ国があり、近年では日本企業の進出も活発である。地政学的には、東アジア 地域と中東 地域を結ぶ海上の交通路に位置し、日本にとって戦略的に重要である。
核実験を行ったインド やパキスタン と距離を置いていた時期もあったが、近年、両国との関係が重視されるようになり、2006年 (平成18年)に外務省 アジア大洋州局に南部アジア部を新設した。
インド、パキスタン、バングラデシュ 、スリランカ 、ネパール 、ブータン 、モルディブ 等南アジア諸国は日本のODAを受けている。
インド
ラース・ビハーリー・ボース を囲む日本人支援者たち。犬養毅 や大川周明 がいる。
インパール作戦 に失敗し敗走した日本軍を追走するグルカ兵 。
2007年 のマラバール演習 。米印に加え、日本が初めて参加した。
安倍晋三 とナレンドラ・モディ による日印首脳会談。
インド : 近年の著しい経済発展 や情報技術 での実績、国際社会における影響力の増大が注目されているインド は南アジア で最も関係性の強い国であり[ 326] [ 327]
、また今後関係性がさらに親密になることが期待されている国の一つである[ 328] 。経済的には、インドの2020年 の対日輸出は構成比1.5%、対日輸入は構成比2.7%とともに際立って強い貿易関係があるとはいえないものの[ 329] 、今後の貿易拡大を目指して経済的な障壁の撤廃が順次進められており、2011年 には日本・インド経済連携協定 が締結された[ 330] [ 331] 。インドに進出している日本企業 はおよそ1,400社である[ 332] 。逆にインド企業 の日本進出も進んでおり、代表的なインフォシス やタタ・コンサルタンシー・サービシズ [ 333] [ 334] 、ウィプロ はいずれもIT関連企業である[ 335] [ 336] 。日本は早期からインド投資を開始した国の一国であり、現在ではその比重は下がっているものの未だに世界10位以内のインド投資国である[ 329] 。在日インド人 はおよそ3万6000人で在日外国人 のなかでは12番目に多い[ 337] 。
巨大化する中国を挟む地政学的な理由もあって、安全保障の面でも協力関係にある[ 338] 。2008年 には日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言 が締結された[ 339] 。日本 の安全保障条約 の締結はアメリカ合衆国 、オーストラリア に次ぐ三か国目である[ 340] 。インド軍 と自衛隊 の共同訓練も拡大する意向が示されており[ 341] 、両国の間で物資や役務を融通する物品役務相互提供協定 (ACSA)も米英豪仏加に続いて締結され[ 342] [ 343] 、2016年 以降は米印によるマラバール演習 に日本が正式なメンバーになるなど[ 344] [ 345] 、互いに「準同盟国」へと変化しつつある[ 346] [ 347] 。安全保障を念頭に置いたインド太平洋地域 の開発でも協力している[ 348] 。またともに日米豪印戦略対話 に参加し[ 349] 、ともに安全保障理事会 における常任理事国 入りを目指すG4 のメンバーである[ 350] 。
歴史的な交流は6世紀 、中国を介してインドから日本に仏教 が伝わったことに始まり、そのため1500年の関係性があるとも言われる[ 351] 。仏教 によって結びつけられた日印は、両国の僧侶 や学者 がしばしば互いの国を目指して航海の旅に出た。736年 にはインドの僧侶菩提僊那 は仏教 を広めるために来日し[ 352] 、大安寺 を拠点に東大寺の大仏 の開眼供養会の導師をつとめている[ 353] [ 354] 。一方で日本や中国ではインドは「天竺 」[ 注釈 6] として知られ[ 355] 、現在は世界遺産 に登録されているナーランダ僧院 の古い記録には日本から来た学者と弟子のことが書かれている[ 356] 。江戸時代 に入ると天竺徳兵衛 などがインド に渡った。これら交流は信仰や文化に強い影響を与えており、インドの女神サラスヴァティー は日本では弁財天 として知られ[ 357] 、ブラフマー は「梵天 」[ 358] 、ヤマ は「閻魔 」[ 359] 、バラモン教 やヒンドゥー教 におけるアスラ は「阿修羅 」として伝わっている[ 360] 。16世紀 以降はポルトガル領ゴア と政治的・経済的な関係を結び、禁教令 が出されると日本人キリスト教徒たちは迫害を逃れてゴア に渡り日本人コミュニティの形成を促した[ 361] 。1868年 にはイギリスの商船を通じてインドを代表する料理であるカレー が持ち込まれた[ 362] 。
ただし本格的な交流の開始は日本が近代化 の過程に入った明治時代 からであり、19世紀 末には日本とイギリス領インド帝国 の間で綿織物市場における激しい国際競争が続いたが[ 363] 、1903年 には大隈重信 、長岡護美 、渋沢栄一 らによって日印協会 が設立された[ 364] 。日露戦争 以後の日本の列強 としての台頭はアジアの復活としてインドを含む欧米植民地で肯定的に捉えられ[ 365] 、インド国民会議 結成に強い影響を与えている[ 366] 。ジャワハルラール・ネルー はのちに朝鮮併合 など日本の帝国主義 に批判的になるも[ 367] 、日露戦争 の直後は「小さな日本が大きなロシアに勝ったことは、インドに深い印象を刻み付けた。日本がもっとも強大なヨーロッパの一国に対して勝つことができたならば、どうしてそれがインドにできないといえようか」との言葉を残すなど影響を受けている[ 368] 。インドの詩人であるラビンドラナート・タゴール なども日本人の美意識を高く評価し[ 369]
、岡倉天心 ・河口慧海 ・野口米次郎 などと親交があった[ 370] [ 371] 。またインド独立運動 の指導者であるラース・ビハーリー・ボース がイギリスの統治から逃れ日本に亡命し[ 372] 、日印関係の基礎を築いた[ 373] [ 374] 。日本に留学経験のあるA.M.ナイル も帰国後に独立運動の指導者のひとりになっている[ 375] 。
戦時中には日本が占領 したシンガポール にて自由インド仮政府 [ 376] 、および軍事組織であるインド国民軍 が日本軍の 支援によって設立[ 377] 。いずれもそのトップはスバス・チャンドラ・ボース が務め[ 378] 、日本軍の占領 に協力してアンダマン・ニコバル諸島 を統治[ 379] 。ボースは日本に赴き東條英機 と会談を実施し[ 380] 、また将来のインド人パイロット育成のため東京ボーイズ など青年を陸軍士官学校 または陸軍航空士官学校 へと留学させた[ 381] 。ボース率いるインド国民軍と牟田口廉也 ら日本軍によるインパール作戦 は有名であり[ 382] 、ボースの遺骨は東京 の蓮光寺 に安置されている[ 383] 。戦後は極東国際軍事裁判 でラダ・ビノード・パール が日本の戦争犯罪 をある程度認めつつも平和に対する罪 と人道に対する罪 は戦勝国 により作られた事後法 であることから戦犯の無罪を主張[ 384] [ 385] 。さらには1951年 のサンフランシスコ講和会議 では日本の主権と独立が限定的であると批判し、インドは出席を拒否した[ 386] 。ニューデリー 開催の1951年アジア競技大会 ではインド の支持のもと日本 が国際スポーツ界に復帰するなど[ 387] 、インドは日本の国際社会復帰に尽力し友好関係が築かれた。1980年代 には冷戦 、1998年 にはインドの核実験 により一時的に関係は冷え込んだものの[ 388] 、21世紀 に入るころには関係改善が果たされて現在に至っている[ 326] 。
スリランカ
2007年 、スリランカ大統領 であるマヒンダ・ラージャパクサ (左)と内閣総理大臣 である福田康夫 (右)の首脳会談。
スリランカ : スリランカ は独立以前、セイロン島 はイギリス領セイロン であり福沢諭吉 、森鴎外 、夏目漱石 、与謝野晶子 、昭和天皇 などがヨーロッパ に向かう途中の中継地としてコロンボ に立ち寄っている[ 389] 。太平洋戦争 開戦初期の1942年 には日本軍 とイギリス軍 によるセイロン沖海戦 が勃発[ 390] [ 391] 。またその過程で日本軍 はコロンボ やトリンコマリー を空襲 している[ 392] 。しかし戦後の1951年 のサンフランシスコ講和会議 で、独立国となったセイロンの大統領ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ が「憎悪は憎悪によって止むことなく、慈愛によって止む(Hatred ceases not by hatred, But by love. )」との仏陀 の言葉を引用し対日賠償請求権を放棄するなど[ 393] 、日本の国際社会復帰に尽力した[ 394] [ 395] 。
現在では親日国 の一つとして知られている[ 396] 。2020年 のスリランカの対日輸出は構成比1.9%で第8位、対日輸入は構成比3.3%で第6位であり、インドやイギリス、アメリカほどではないながら重要な位置を占める[ 397]
。1997年 、スリランカは将来的に日本との自由貿易協定 を結ぶことを期待されるBIMSTEC (多方面技術経済協力のためのベンガル湾イニシアティヴ)に参加した[ 398] 。2021年 時点で日本企業進出数は144社で[ 399] 、新興市場として注目されている[ 400] 。在日スリランカ人 は在留外国人 の中で14番目に多くおよそ3万人を数えるが[ 337] 、一方で2021年 には名古屋出入国在留管理局 の施設に収容されていたスリランカ人女性が健康上の理由で治療を求めるも認められず死亡した問題(ウィシュマさん死亡事件 )も起きている[ 401] [ 402] [ 403] 。
スリランカでもシーレーン の要地と認識され、安全保障面では長年協力関係が続いているが[ 404] 、経済支援の面では日印に代わって近年では中国 が台頭しつつある[ 405] 。またスリランカ内戦 終結後、日本政府は明石康 など専門家派遣や青年招聘を実施するなどして平和構築に貢献し[ 406] [ 407] [ 408] 、それら貢献もあってスリランカは日本の常任理事国 入りを継続的に支持している[ 409] 。
ネパール
カトマンズ ・ボダナート にある河口訪問の記念碑。
ネパール : 1899年 に日本の黄檗宗 修行僧 の河口慧海 がチベット に向かう途中に日本人として初めてネパール を訪れた[ 410] [ 411] 。同時期の1902年 にはチャンドラ・シャムシェル 首相が8人の留学生を近代化 を果たした日本へ派遣した[ 412] 。この二つは日本とネパールの交流の先駆である[ 413] 。1956年 には外交関係が成立し[ 414] 、2000年 には森喜朗 が総理大臣 として初めてネパール を訪問した[ 415] 。
また間接的な交流ではあるものの、日本で広く信仰されている仏教 の開祖・釈迦 (本名・サンスクリット語 : ガウタマ・シッダールタ)の出生地は現ネパール 領内にあるルンビニ であり[ 416] 、その点では古代から交流があったと言える[ 414] [ 417] 。ルンビニで生まれた釈迦はその後、インドのブッダガヤ で悟りを開き、その教えはインドから中国を介して日本に伝来した。現在、ルンビニは世界遺産 に登録されているがそれ以前は荒廃が目立ち、その整備や開発に寄与したのはウ・タント 国連事務総長 から直接その荒廃状況を聞いた日本の建築家 ・丹下健三 である[ 418] [ 419] 。
日本とネパールの関係は常に親密で友好的であり[ 414] 、2008年 に王制 が廃止されるまではネパール王室 と皇室 の間で交流があった[ 420] 。2015年 のネパール地震 では自衛隊 などから構成される国際緊急援助隊 が派遣され[ 421] 、救助活動にあたっている[ 422] 。これらの貢献もあって、ネパールは日本の常任理事国 入りを支持する国の一つである[ 423] 。在留邦人 のうち在日ネパール人 は10万人弱と第6位の多さで民間の交流も多く[ 155] 、また在日留学生も2万5,000人程度を推移しており中国、ベトナムに次ぐ第3位の多さである[ 424] [ 425] 。
パキスタン
コハットトンネル の出入り口には日本とパキスタンの友好を示す看板が掲げられている。
パキスタン : 1952年 の国交樹立直後、日本とパキスタン は綿花 によって結び付けられた[ 426] 。パキスタンは日本の織物産業 で使用される綿 の主要供給地であり、一方で日本 の紡錘 はパキスタン の紡績工場建設に役立てられていた[ 427]
。1960年代 以降は日本の経済成長によって対パキスタンへの経済支援が活発化し、それが現在の友好関係につながっている[ 428] 。日本の支援で有名なものは、126億円の円借款で大成建設 により建設された全長約1800mに及ぶコハットトンネル [ 429] 、インダス川 におけるガジ・バロータ水力発電所建設事業 (英語版 ) [ 注釈 7] [ 430] [ 431] 、パキスタンを縦断する全長1,024kmの幹線道路「インダス・ハイウェイ」の建設などが挙げられる[ 432] [ 433] [ 434] 。
1998年 (平成10年)の地下核実験 では日本は強い抗議をしており[ 435] 、そこから2005年 (平成17年)4月までは制裁として援助を停止していた[ 436] [ 388] 。しかし自衛隊イラク派遣 などで安全保障の観点から中東 への影響力が強いパキスタンの協力が必要と感じた日本政府は関係の再開と強化を目指し[ 437] 、当時の小泉純一郎 内閣総理大臣 が訪問したのを機に有償資金援助を再開した[ 438] [ 439] 。
現在では、日本はアメリカとイギリスに次ぐパキスタンの主要援助国であり[ 428] 、友好国としてパキスタンの発展に貢献している[ 440] 。一方で貿易関係はやや希薄で、2020年 の対日輸出の構成比は0.7%、対日輸入の構成比は2.8%に留まる[ 441] 。在日パキスタン人 は2021年 6月時点で約19,000人とイスラム圏 ではインドネシア に次いで多い[ 337] 。またアフガニスタン への人道活動で知られる医師 の中村哲 は1980年代 当初はパキスタン のカイバル・パクトゥンクワ州 で活動しており[ 442] 、彼を支援するために設立されたペシャワール会 は今では活動の重心がアフガニスタン に移っているが「ペシャワール 」はパキスタン の都市である[ 443] 。
バングラデシュ
アンヌールモスク新潟 の起源はバングラデシュ人留学生が設立したムスリムグループ「アンヌール」に遡る。
バングラデシュ : 独立以前の東パキスタン 時代、日本の対パキスタン支援の3分の2が東パキスタン に注がれていた[ 444] 。その背景には気候風土が比較的近いこと[ 444] 、親日的であること[ 444] 、外国援助のほとんどがパキスタン本国に対して行われていたことがある[ 444] 。1971年 にはパキスタン軍 によるバングラデシュ 独立運動の武力弾圧が行われ、これを境に日本は難民の支援、国連外交、パキスタンへの援助停止などバングラデシュ の独立プロセスを支援[ 444] 。特に議員の早川崇 が独立以前の東パキスタン のサイクロン被害に対し街頭募金を実施したほか、独立以後は日本特使としていち早くバングラデシュを訪問した[ 445] 。1972年 2月10日 には西側諸国 で最も早くバングラデシュ を国家承認し国交を樹立した[ 446] [ 447] 。
独立以後は積極的にバングラデシュ支援が実施された。バングラデシュ は中央に国土を東西に分けるブラマプトラ川 [ 注釈 8] が流れており、それが東西の往来を困難にしていたが、日本の支援で1998年 にジャムナ多目的橋が架橋されている[ 448] 。このような歴史からバングラデシュは親日的な姿勢を見せている[ 449] 。初代バングラデシュ大統領 ムジブル・ラフマン の娘のシェイク・ハシナ 首相は、バングラデシュの国旗 を制定するときに「父は日本の日の丸を参考にした」と述べている[ 450] [ 451] 。
現在ではあらゆる面で結び付きが強く[ 452] [ 453] 、同時に将来的には自由貿易協定の締結や日本企業のさらなる進出、日本人観光客の促進など関係発展も期待されている[ 454] 。経済面では2019年 時点のバングラデシュの対日輸出は構成比3.1%で第9位の輸出相手国、対日輸入は構成比2.48%で第7位の輸入相手国である[ 455] 。バングラデシュから日本への主要輸入品目は革製品、既製服、冷凍エビなど[ 449] 。また日本は主要なバングラデシュ直接投資国である[ 456] 。政治的にも協力関係にあり、日本の非常任理事国選出を支持したことがあるほか[ 457] [ 458] 、日本の常任理事国 入りにも賛成の姿勢を見せている[ 459] 。文化・学術的な関係も深まりつつあり、2020年 のバングラデシュ人留学生はおよそ3,000人で国籍別で9番目に多く[ 460] 、2009年 にはバングラデシュ の留学生が中心となって新潟市 にモスク が建設された[ 461] 。
ブータン
ブータン : 国交樹立以前は植物学者 の西岡京治 がブータン の農業の発展に寄与し、最高の爵位「ダショー」を授かっている[ 462] 。1986年 の外交関係樹立以来、日本とブータンの関係は皇室・王室間の交流[ 463] 、経済協力等を通じて友好関係にある[ 464] 。日本人とブータン人 は外見が非常に良く似ているとされる[ 465] 。ブータンは大の親日国 としても知られ、その為国際機関 での選挙・決議等において常に日本を支持する重要な支援国でもある(安保理改革 に関するG4 枠組み決議案の共同提案国、国連人権委員会 等)[ 466] 。
モルディブ
モルディブ : 国交樹立以後、友好国である[ 467] 。国土のほとんどが低地であり、常に水害 のリスクが伴うモルディブ では1987年 、異常な高潮 に襲われ首都の浸水や伝染病の蔓延など大きな被害に見舞われた。このことを契機として日本政府は1987年 から2002年 までの15年をかけて首都マレ の全周約6キロにわたる護岸工事を実施した。その後2004年 にはスマトラ島沖地震 が発生しインド洋 各国で大規模な被害を出したが、マレは日本が建設した防波堤 に守られ一人の死者も出さなかったことが知られている[ 468] 。この貢献を受けてモルディブは日本国民に「グリーン・リーフ賞(環境賞)」を授与した。他国の国民全体に対して同賞が授与されるのは初めてのことである[ 469] 。以後も日本からモルディブ への消防車 の供与など[ 470] 、防災上の交流は緊密である。
中央アジア・中東
中央アジア 諸国はかつてシルクロード 経由で日本へも文化的な影響を及ぼしていたが、現在の人的な関係は乏しい。経済基盤の貧弱な国が多く、更に海に面していないために輸送コストなども掛かるなどの理由から一部の希少な地下資源を除き、貿易などの経済的な関係も他地域と比べて活発と言えない状況にある。ただ、この地域に栄えた古代王朝や仏教遺跡の研究などの学術関係での交流は活発である。
西アジア は主要な原油供給元であり、経済的に密接な関係を保っている。だが、文化的交流は比較的乏しい。但し宗教的な対立要因が無いため住民の対日感情は比較的良好とされる。
アフガニスタン
アフガニスタン : 日本はバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群 の修復などに多額の援助を行っている。アメリカ合衆国 が行った武力攻撃 を支持したが、部隊の派遣は、自衛隊インド洋派遣 に留めている。
イエメン
イスラエル
イスラエル : 日本は中東和平 やパレスチナ問題 に関して中立の立場であり、政府高官が訪問する際にはイスラエル・パレスチナ自治政府 の双方と会談が設定される等、バランスが図られている。
イラク
イラク : イラク戦争 の後、日本は自衛隊イラク派遣 を行った。
イラン
サウジアラビア
トルコ
トルコ :トルコ も、オスマン帝国 以来の宿敵であるロシアを日本が日露戦争 で勝利したことに非常に感銘を受けて、青年トルコ運動など独立運動が盛んになったこともあり親日感情が根強い。
その他にもエルトゥールル号遭難事件 などの影響もある。
ヨルダン
大洋州・オセアニア
2009年 9月21日 、ウォルドルフ=アストリア にて握手を交わす日本の岡田克也 外務大臣 、アメリカのヒラリー・クリントン 国務長官 、オーストラリアのステファン・スミス外務大臣。
オセアニア の中でも南洋諸島 の各国は、かつて日本が委任統治 領ないし占領地として統治下に置いていたこともあり、関係が比較的深い。
ミクロネシア連邦 では、日系人のトシオ・ナカヤマ やマニー・モリ が大統領 に選ばれている。パラオ ではかつて日系のクニオ・ナカムラ が大統領に就任し、一部の自治体で日本語 が公用語として採用されている(実際に日本語を日常的に使用している訳でなく、象徴的な意味合いが強い)などの経緯もあり、官民とも非常に親日的である。
オーストラリア
オーストラリア : 日本はオセアニア で最大の影響力を持つオーストラリアと非常に緊密な関係を築いている。日米豪の防衛首脳会談が行われたこともあり、経済、軍事、外交などで共同歩調を取る。2007年 (平成19年)3月には、自衛隊 とオーストラリア軍 とが国際連合平和維持活動 (PKO活動)の共同訓練、反テロ活動、津波など地域災害に協力して当たることなどが盛り込まれた安全保障協力に関する日豪共同宣言 に調印した。これにより、日本にとって安保分野で正式な協力関係を結ぶ(アメリカに続く)2番目の国となる。
日本とオーストラリアの間には相互利益、友好といった相互関係が認められるだけではなく、緊張の要素もなかには見られる。白豪主義 がかつて強固に存在し、日本脅威論 も盛んだった。
太平洋戦争時には、日本軍からダーウィン を爆撃されたり、サンダカン死の行進 など連合軍捕虜として日本軍に虐待を受けた。近年の緊張の最大は日本の経済支配に対する懸念であったが、1990年代に日本が不景気に入るにつれて薄れていった。
同時にオーストラリアの政府と財界は日本が輸出市場に不可欠であり、相互にとって将来の成長とアジア太平洋地域の繁栄には必要な存在であるとみている。
加工貿易をしている日本にとって、オーストラリアは原料と食糧の供給をしている非常に重要な資源国でもある。1990年 には、日本の輸入の5.3%がオーストラリアからのものであった。
石炭、鉄鉱石、羊毛 、そして砂糖を多く輸出していることから日本に対して貿易黒字となっている。日本からの資本の投資による輸入製品や近年のアメリカ産および、カナダ 産牛肉の輸入禁止によって重要な輸出国ともなった。
サモア
サモア : 友好的な関係が築かれている[ 471] 。1966年 にはスパリゾートハワイアンズ の前進にあたる常磐ハワイアンセンター が開業するが、ここで長年実施されている「ポリネシアンショー」はサモア の踊りとファイアーナイフダンスを取り入れている[ 472] 。これを契機に福島県 いわき市 とサモア の間に交流が生まれており[ 473] 、2016年 にはいわき市に在福島サモア名誉領事館が開設されたが、これはスパリゾートハワイアンズ の経営会社である常磐興産 の社内に入居している[ 474] [ 475] 。
ソロモン諸島
ソロモン諸島 : 1978年 7月7日、ソロモン諸島 がイギリスから独立したことを受けて日本は直ちに独立を承認、両国の間で国交が樹立された[ 476] 。戦時、戦後の日本では古戦場のガダルカナル島 が有名で、戦跡めぐりツアーや慰霊ツアーも組まれている[ 477] 。
ニュージーランド
北米
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国 : 軍事・経済・政治すべてにおいて緊密かつ重要な関係を築いている。
日本にとってアメリカは唯一の同盟国 であり、アメリカにとっても日本は戦略的な意味で重要な同盟国の一つでもある。両国は、安全保障面で強い協力関係を築いている。第二次世界大戦 (太平洋戦争 ・大東亜戦争 )で両国はアジア太平洋 地域で4年間に渡って激しい戦闘を繰り広げたが、戦後 はアメリカを中心とする連合国軍 が日本を占領・統治した。アメリカによる日本への援助は、1946年 (昭和21年)から1951年 (昭和26年)の間に「ガリオア資金 」 (GARIOA) と「エロア資金 」 (EROA)から約18億6000万ドル が拠出された[ 478] (1973年完済)。この援助が日本の経済 の早期復興に役立った。
サンフランシスコ講和条約 締結により、7年の占領時代 を経て日本が主権を回復した後は、日米安保条約 での日米同盟 に基づき基地用地 および駐留経費の一部(思いやり予算 )を提供している。これについては沖縄 などで縮小運動が起きることがあり、しばしば政治的な課題として浮上する。日本国内では、日米安保条約が日本の安全保障 や外交の自主性を損なっていると批判されることもあるが、日本政府は周辺諸国(とりわけ、ロシア ・中国・北朝鮮)の軍事力に対する警戒感から同盟の強化を図る考えである。
この両国は、時に激しい経済・貿易摩擦 を起こしながらも経済関係でも強い結びつきを持っている。黒船来航 から始まる経済関係は、アメリカの経済力を背景に大きなものであり続け、アメリカは日本にとって2006年 (平成18年)まで最大の貿易相手国であった。
また、両国の経済的な結びつきの大きさ故に文化・慣習面での差異が感情的な摩擦を招くこともある。また日本が犯罪人引渡し条約 を結ぶ数少ない国の一つである。
日米関係は1990年代初めの経済・貿易摩擦が顕著化したときにもっとも悪化したが、バブル経済崩壊 以後の日本経済 の停滞(失われた10年 、失われた20年 )・1990年代以後のアメリカ経済 の成長・日系企業の現地化の努力などにより、以前ほどアメリカにとって脅威とはみなされないようになった。
湾岸戦争 の際には、日本は莫大な金額の資金援助を行っていたが直接的な軍事的支援を行わなかったためにアメリカ政府 から批判された。その後も、日本は小泉純一郎内閣が行った自衛隊イラク派遣 などより積極的な安全保障 上の協力を行うようになった。
カナダ
カナダ : カナダ と日本の外交関係は1889年の在、バンクーバー日本領事館の開設[ 479] をもって公式に始まった。1929年、カナダは東京にアジアで初めてとなる公使館を開設し[ 480] 、同年日本もオタワの領事館を公使館へ格上げした[ 481] 。
一部のカナダ系日本人の間では、後年に両国が相互に設置した常設の公使館に先駆けて非公式な接触があった。永野万蔵 もカナダに渡った最初の日本人として知られ、1877年にはブリティッシュコロンビア州 ニューウェストミンスター に上陸したとの記録がある[ 482] 。在バンクーバー日本領事館はオタワの公使館が設置される40年前の1889年に開設された[ 483] 。
カナダ人のG.G.コクランが同志社大学 、同じくデビッドソン・マクドナルドも青山学院大学 の創設にそれぞれ関与した[ 481] 。
1923年の関東大震災 においては、カナダの蒸気船エンプレス・オーストラリア とその艦長サミュエル・ロビンソン は勇敢にも発災から間もなく救助活動を行ったことで国際的に称賛を浴びた[ 484] 。
カナダの駐在武官 だったハーバート・シリル・サッカー も日露戦争 (1904年-1905年) 中、旧日本軍 と共に戦場に赴いて功績を挙げたことにより、日本政府から勲三等瑞宝章 に叙された[ 485] のに加えて、旧日本軍からも従軍記章 を授与された[ 486] 。
カナダと日本は1928年に外交関係を樹立して以来、経済・政治・社会文化等の分野で重要な関係を築き、アジア太平洋地域において能動的な役割を担っている。両国は国際社会の一員として人権・持続可能な開発・平和維持活動等でイニシアチブを発揮し、これらを強力に推進している。
日加関係はG7/G8 、国際連合 、OECD 、QUAD(アメリカ、カナダ、EU、日本)の他、アジア太平洋経済協力 フォーラム (APEC) やASEAN地域フォーラム (ARF) 等への参加を含む環太平洋域における関連団体・会合等による多国間パートナーシップ組織によって支えられている。
2009年には天皇 ・皇后 がカナダを訪問した[ 487] 。
南米
中央アメリカ (中米)諸国とは人的・文化的な交流に乏しいものの、経済的な関係を中心に平穏な関係を保つ。中米のキューバ などの社会主義国 とも経済・文化の両面で友好的な関係が築かれ、ペルー日本大使公邸占拠事件 でも日本の要請を受けたキューバがゲリラ の亡命受け入れを受諾するなど協力した。
南アメリカ (南米)は地理的に地球の真裏に位置するが、下記のように19世紀の後半からペルー やアルゼンチン と深い友好関係を有する。かつて、日本からの移民を大量に受け入れた経緯もある。貿易関係では、チリ との関係が特に大きく、戦前からの友好関係が続くアルゼンチンやパラグアイ といった親日的な国も多い。その他にもキューバ 、コロンビア 、パラグアイ 、ボリビア などに日系人 が住み、その日系人を通じた伝統的友好関係が存在する。
アルゼンチン
アルゼンチン : 1898年 (明治31年)、ロシアとの戦争に備えて軍艦リバダビア、モレノをそれぞれ春日 、日進 として購入し、それらが日露戦争 で活躍したことなどから本格的な関係が始まった。またマルビナス戦争(フォークランド紛争 )の最中、アメリカやイギリスなどからの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置を行わないなどの日本の独自外交はアルゼンチンの知日家から高く評価されている。
ウルグアイ
キューバ
コロンビア
チリ
パラグアイ
パラグアイ : 1937年 、パラグアイ に日本人が初めて移民として入植して以来、日系パラグアイ人 の貢献が高く評価されて伝統的に友好関係が続いている。1959年 に締結された日本の国策による移住 協定は、1989年に効力が無期限延長に改定され、8万5,000人の日本人移住者が受け入れ可能となっている。
ブラジル
ブラジル : 南米 最大の国でもあるブラジル には約30万人近い日本人が移民として渡り、その子孫でもある日系ブラジル人 を含めると200万人以上が住み、海外で最大規模の日系人社会が築かれている。日本の経済力・技術力やブラジルの資源など相互補完的な関係が結べることもあり、距離的には非常に遠いものの日本とブラジルはお互いにとって非常に重要な国であり、非常に密接な関係が築かれ、「遠くて近い国」とも呼ばれる。1990年 より日系 3世まで簡単に日本の労働ビザが習得できるようになったことから現在では約30万人のブラジル国籍者が日本に住んでおり、これは国籍別で見ると中国、韓国・北朝鮮に次ぐ3番目である。しかしながら査証相互免除協定は結ばれておらず[ 488] 、今後の両国の大きな課題となっている。
両国とも政治・経済のみならず、文化的な面からも非常に深い関係を保つ。特にJリーグ が始まって以降、ブラジル人 選手が最多数の外国人選手であり続けている。ブラジルもG4 として共に常任理事国 を目指していることもあり、国際政治上で連携することも多い。
ベネズエラ
ペルー
ペルー : 1872年 (明治5年)にマリア・ルス号事件 をキッカケに修交が始まった。多くの移民が渡り、ペルー では南米でブラジルよりも長い日系社会の歴史を持っており、ラテンアメリカで二番目に日系人口が多い。1990年 に日系ペルー人 2世であるアルベルト・フジモリ (スペイン語 で「フヒモリ」)がペルーの大統領に就任して急速に関係が緊密化したが失脚後、日本に亡命した。その後、フジモリの人権問題が浮上するとフジモリが日本に滞在し続け、最終的には日本国籍を認められたことから特に反フジモリ派のペルー人 の間には日本に対する反感を持つものもある。
ボリビア
メキシコ(北米と分類される時もある)
メキシコ : (中米諸国の中で最も関係が深い。)明治の開国以降に結ばれた日墨修好通商条約 は、それまで列強各国の不平等条約 に苦しめられてきた日本にとって初めての平等条約である。その関係で数ある諸外国の大使館 の中でも国政の中枢地区ともいえる永田町 に在るのは、メキシコ大使館のみである。メキシコ では多数の日本企業が進出するなど、経済的な関係も深い。ラテンアメリカ では、グアテマラ の次の1894年 に日本人移民(日系メキシコ人 )が移住した国であり、今でも1万人ほどの日系人が同国に居住している。2004年 9月17日 、「日本・メキシコ経済連携協定」が両国間で署名された。これは小泉純一郎首相(当時)が世界経済安定化を図るために行った政策の一環であり、両国にとって歴史的なものであった。
欧州(NIS諸国を含む)
基本的には良好ではあるが、死刑存続や捕鯨、または記者クラブ などの問題で一部対立が存在することもある。
欧州連合
第二次世界大戦 以降、西ヨーロッパ を中心とする北大西洋条約機構 諸国と間接的な同盟関係にある。皇室は、イギリス やオランダ 、スウェーデン 、ベルギー などのヨーロッパ 各国の王室と深い友好関係を築いている。
欧州連合 とは1991年7月、ハーグ において第1回日EU定期首脳協議 を開催して以来、継続して定期首脳協議を開催しており、政治関係は概ね良好である。一方で日本側はアメリカやアジア諸国などとの関係を、欧州連合側はアジアでは中国やインドなどとの関係を強化していることから、日本と欧州連合との関係は相対的にむしろ希薄化が懸念されている。
イタリア
オーストリア
1873年 ウィーン万博 の日本館の様子。
新橋駅 に到着したフランツ・フェルディナント を描いた日本の錦絵 (楳堂小国政 画)。
2017年 、セバスティアン・クルツ 首相 (当時、右)と岸田文雄 外務大臣 (当時、左)の会談。
オーストリア : オーストリア では、大国であるオーストリア帝国 やハプスブルク家 の動向はオランダ風説書 を通じて江戸幕府 に知らされていたが[ 489] 、正式な関係の始まりは明治時代 に遡る[ 490] 。1869年 、明治政府とオーストリア=ハンガリー帝国 は日墺修好通商航海条約 を締結し[ 491] 、両国間の外交関係を樹立した[ 489] 。この条約は日本が欧米列強 と結んだ最後の条約であり、領事裁判権 などの分野で日本側に最も不利な規定となっていて[ 492] 、その内容は各国が日本と結んだ条約の最恵国待遇 の規定によって全ての列強 に対して自動的に適用されることとなった。そのため日本の不平等条約 の集大成と呼ばれた[ 493] 。この国交樹立以後、1873年 にはウィーン万国博覧会 に初めて日本が公的参加を果たしている[ 494] 。
オーストリア=ハンガリー帝国 は列強 として、日本の近代化には米英独仏露伊に次ぐ影響を及ぼした[ 489] 。オーストリア=ハンガリー帝国 のお雇い外国人 は少数ではあるものの、考古学 や民俗学 の発展に寄与したハインリヒ・フォン・シーボルト [ 495] 、音楽教育に尽力したディットリヒ [ 496] 、解剖学 や麻酔学 を伝えたユンケル [ 497] 、薬剤学 を教え後藤新平 などを育てた医師ローレツ [ 498] 、はげ山 復旧など森林土木分野に貢献したホフマン [ 499] 、宮内省 雇用の音楽教師ドゥブラヴチッチ などが知られる[ 500] 。また特異な活躍をしたオーストリア人 としては、日露戦争 に勝利した日本陸軍 視察のため訪日しスキー を伝えたレルヒ少佐 [ 501] [ 502] 、函館 でハム やソーセージ 製造を伝えたレイモン [ 503] 、日本人写真家 を育てたシュティルフリート などがいる[ 504] 。1892年 には後に暗殺され第一次世界大戦 のきっかけとなるフランツ・フェルディナント も世界一周の途上に日本に立ち寄り歓迎を受けている[ 505] [ 506] 。その後ジャポニズム の影響を受けたフランツ・フェルディナント は1913年 シェーンブルン宮殿 に日本庭園 を整備させた[ 507] 。逆に日本も文化的に影響を受けており、「シュラフ 」[ 508] 、「コッヘル 」[ 509] 、「ピッケル 」[ 510] 、「リュックサック 」[ 511] 、「ゲレンデ 」[ 512] 、「ストック 」など[ 513] 、登山 やスキー にまつわるドイツ語 の単語はオーストリア から齎されたものも多い[ 514] 。
日露戦争 では日本 とオーストリア=ハンガリー帝国 は反露で一致しており[ 489] 、支援こそなかったものの日本の勝利は好意的に伝えられた[ 515] 。しかし第一次世界大戦 では宣戦布告 を経ず交戦状態に至り[ 516] 、青島の戦い ではカイザー・フランツ・ヨーゼフ1世級防護巡洋艦 カイゼリン・エリザベート号などで構成されるオーストリア=ハンガリー帝国海軍 が実際に日本海軍 と海戦を繰り広げた[ 517] 。この時に生じた捕虜は人道面に配慮されつつ日本国内の収容所 に収容され[ 518] 、オーストリアの音楽や料理などの文化を伝えた[ 519] 。一方でオーストリア=ハンガリー帝国内に残留していた日本人は逮捕・拘留され、外交上の懸案となった[ 520] 。第一次大戦 後はオーストリア=ハンガリー帝国 は瓦解しオーストリア第一共和国 との新たな関係が構築された[ 489] 。第二次世界大戦 ではオーストリアはアンシュルス によってナチス・ドイツに占領 されていたため[ 521] 、結果的にオーストリアはドイツ の一部として日本 と同じ枢軸国 であった[ 489] 。
戦後は国交が回復し[ 489] 、現在では友好国として知られている[ 522] [ 523] 。2020年 時点の貿易関係は、オーストリアの対日輸出は構成比1.1%でアジア二位[ 524] 、対日輸入は構成比1.4%で同じくアジア第二位となっており[ 524] 、日本はオーストリアにとって中国に次ぐアジアで二番目に重要な貿易相手となっている[ 524] 。政治的には1990年 以来「将来の課題のための日・オーストリア委員会 」が設けられており、定期的に政治・経済・外交・社会等あらゆる分野での協議が行われている[ 525] 。2019年 には外交関係150周年を迎え、経済や観光におけるさらなる協力関係の強化が示された[ 526] [ 527] 。また特筆すべきは音楽分野での交流であり[ 522] 、ウィーン は音楽の都と日本人の間で広く認知されており、ウィーン国立音楽大学 などに日本人留学生が多数いるほか[ 522] 、ウィーン少年合唱団 やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 は日本でも人気を博す[ 528] [ 529] 。
オランダ
オランダ商館 での食事会の様子。
ヒュースケン が攘夷派浪士組 に殺害される様子。
蘭印作戦 における日本軍 の進路。
オランダ : 日蘭の出会いは16世紀 末の1600年 、オランダ 商船のリーフデ号 が豊後国 に漂着したことに遡る[ 530] 。リーフデ号 の航海士ヤン・ヨーステン(耶揚子) は江戸幕府 に外交顧問として雇われたことで知られる[ 531] 。また船長クワッケルナック も江戸幕府 に仕え[ 532] 、サントフォールト は堺 で貿易商として短期間活躍した[ 533] 。鎖国政策 の中にあっても江戸幕府 は欧州諸国では唯一オランダとは長崎貿易 を通じて外交関係を維持し続けた[ 534] 。オランダ人 は南蛮人とは区別されて紅毛人 と呼ばれ[ 535] 、彼らによって齎されるオランダ風説書 で江戸幕府は国際情勢を知り対外政策を決定した[ 536] 。滞在するオランダ人は出島 に収容され[ 537] 、オランダ商館 が設置された[ 538] 。商館長(カピタン) は定期的に江戸参府 が義務付けられた[ 539] 。また欧州 の学問や技術はそのほとんどがオランダおよびオランダ語 を通じて摂取されたため蘭学 と呼ばれ、1700年代 から1800年代 前半にかけて全国に伝播し隆盛した[ 540] 。多数の蘭学者 が生まれ[ 541] 、蘭学塾 が開設され[ 542] 、蘭方医学 が伝えられ[ 543] 、蘭学事始 が綴られた[ 544] 。これらは幕末 から明治維新 にかけての急激な知的開国の下地を形成した[ 545] 。
その後、1854年 に日蘭和親条約 が、1858年 に日蘭修好通商条約 が締結され不平等条約 に基づく新たな関係が築かれた[ 546] 。一方で日本の近代化にオランダが果たした影響は小さくない。長崎海軍伝習所 ではライケン 、 カッテンディーケ 、「日本近代医学の父」と呼ばれるポンぺ らオランダ人教師によって幕臣や雄藩藩士に西洋技術や航海術、医学が伝えられた[ 547] [ 548] 。また下田 のアメリカ総領事館で通訳兼秘書官を務めたヒュースケン [ 549] 、長崎製鉄所 建設を監督したハルデス などがおり[ 550] 、勝海舟 らを乗せて太平洋 を横断したことで知られる咸臨丸 はオランダで建艦された[ 551] 。明治 には多数のオランダ人 がお雇い外国人 として来日し、特にオランダは干拓によって国土を広げた経緯から河川 や港湾、治水などの面で日本に強い影響を及ぼした[ 530] 。「日本砂防の父」として知られるデ・レーケ [ 552] 、利根運河 を築いたムルデル [ 553] 、淀川 ・千代川 ・信濃川 ・江戸川 ・最上川 などの改修工事に関与したエッセル [ 554] 、安積疏水 開削に携わったドールン などが知られる[ 555] 。また旧約聖書 を翻訳したフルベッキ など独自の方面から日本に貢献した者も少なくない[ 556] 。文化的な影響も大きく、オランダ語から日本語 に定着していったものとしては「ランドセル 」[ 557] 、「スコップ 」[ 558] 、「ピンセット 」[ 559] 、「ピント 」[ 560] 、「ペンキ 」[ 561] 、「レンズ 」[ 562] などが挙げられる[ 563] 。明治末には日蘭通商航海条約 締結によって不平等条約が改正された[ 564] 。
第一次世界大戦 では日蘭とも連合国 側に立って参戦した。戦間期 にはオランダ領東インド (現在のインドネシア )は日本にとって綿布の重要な輸出先となり経済的な結び付きが強まったが[ 565] 、それは世界恐慌 を受けてブロック経済 を推し進めるオランダ の方針にそぐわないものであった。そのため両国は日蘭会商 で貿易利害の調整を試みたが[ 566] 、一方でABCD包囲網 に参加しまもなく第二次世界大戦 が勃発[ 567] 。ナチス・ドイツ に占領され、ロンドン に亡命政府を立てたオランダは米英の要求で対日圧力を強めるに至り[ 568] 、宣戦布告と国交断絶を経て蘭印作戦 で軍事的に衝突している[ 569] 。終戦後オランダ領東インド を占領していた日本兵 は降伏したが[ 570] 、インドネシア独立戦争 には数十名の日本人 がインドネシア を支援し[ 571] 、日本・オランダ・インドネシア の三国に跨る複雑な植民地問題を残した[ 572] 。
サンフランシスコ講和条約 によって国交が復活し、現在では友好関係にある[ 573] 。オランダ王室 と皇室 はともにいわゆるロイヤルファミリーとして親密な関係にあり[ 574] 、2006年 には皇后雅子 (当時親王妃)の療養にオランダ王室 が離宮を提供した[ 575] 。2021年 には海洋進出を強める中国に対抗して自衛隊 とオランダ軍 および米英が参加する共同訓練が四国沖で実施されるなど[ 576] 、安全保障上の協力も近年強めている[ 577] 。経済的には、オランダは日本にとってEU の中でも主要な貿易相手国・投資相手国であり[ 578] 、またオランダにとっても日本は中国、韓国、台湾と並ぶ主要な貿易相手となっている[ 578] 。一方で第二次世界大戦 中おもに東南アジア で交戦した経緯からオランダ人 慰安婦 や捕虜 の扱いに関する問題があり[ 579] 、オランダ下院ではオランダ人慰安婦問題への対日謝罪要求決議 が可決するなど[ 580] 、2000年 の天皇 皇后 のオランダ訪問で両国関係はおおむね改善され、2014年と2019年にウィレム・アレクサンダー国王の来日が実現している。
ギリシャ
小豆島オリーブ公園 (香川県 小豆島町 )のギリシャ風車。ミロス島 との友好の証として1992年 に建てられた。
ギリシャ : 1899年 に日希修好通商航海条約 が締結されたことで、日本とギリシャ の外交関係が始まった[ 581] 。この締結の契機となったのはロシア帝国 との外交摩擦で、黒海 と地中海 を繋ぐダーダネルス海峡 観察の拠点とするためだった[ 582] 。その後、ギリシャと日本は直接的な接点はなかったものの第一次世界大戦 で同じく連合国側 に立った[ 583] 。1919年 のパリ講和会議 では日本が提案した人種的差別撤廃提案 を米英が反対する中、ギリシャは支持している[ 584] 。1922年 には日本はギリシャに公使館 を開設[ 585] 。同年には希土戦争 の難民を積荷を捨ててまで救助した貨物船 「Tokei-Maru」の存在が知られており[ 586] 、これが現在の日希友好の基礎となったが[ 587] 、第二次世界大戦 では対立し国交は断絶した[ 585] 。
終戦後はサンフランシスコ講和条約 を契機に国交が再開した[ 585] 。戦前にはギリシャ側が東京 に公使館設置を一度試みたものの様々な事情から1922年 に断念されていたが[ 582] 、1956年 にはギリシャ側が東京 に公使館の設置を果たした[ 585] 。現在では友好国として知られており[ 588] [ 589] 、ギリシャは日本の常任理事国 入りを支持する一国である[ 590] 。一方でギリシャは経済的に中国と[ 591] 、政治的にはロシア と接近しつつあり[ 592] 、どちらも日本とは諸問題を抱える国であることから一定の不安定さが残っている。経済上の関係はやや希薄であるものの船舶 における結びつきは伝統的に強く[ 593] [ 594] 、日本はギリシャに対して船舶 を多く輸出し、また船舶関連会社が進出している[ 595] 。
二国間関係で特筆すべきは文化における交流であり、東京 や札幌 や長野 で開催された近代オリンピック はギリシャ発祥である[ 596] 。1981年 には「日本政府とギリシャ共和国政府との間の文化協定」が結ばれ文化面であらゆる交流が進んでおり[ 597] 、また香川県 の小豆島 にはミロス島 との友好の証であるギリシャ風車が小豆島オリーブ公園 内に建設されている[ 598] 。また観光地 としての人気も世界的に高く[ 599] 、ギリシャを訪れる日本人観光客はコロナ禍 以前は増加傾向にあった[ 600] 。
スウェーデン
フレドリック・ラインフェルト 首相 (当時、左)と福田康夫 内閣総理大臣 (当時、右)の共同記者会見の様子。
スウェーデン : スウェーデン との二国交流は鎖国体制 下にあった江戸時代 に遡り[ 601] 、1647年 にはスウェーデン人 として初めてヨーハン・オーロフソン・ベリエンシェーナ がオランダとの長崎貿易 を通じて出島 に到着した[ 601] 。その後もオランダ東インド会社 を介する形で、オランダ領台湾 の行政長官を務めたフレデリック・コイエット や[ 602] 、砲術 や三角測量 を伝えたユリアン・スヘーデル など様々なスウェーデン人が訪日[ 603] 。スウェーデン人で最も有名なのは出島の三学者 として知られるカール・ツンベルク で[ 604] 、箱根 などでの採集活動や『日本植物誌 』の編纂を通じて日本の植物学 発展に寄与した[ 605] 。
正式な国交が樹立されたのは日本・スウェーデン=ノルウェー修好通商航海条約 が締結された1868年 で[ 606] 、これも他の欧米諸国と結んだ条約同様に不平等条約 の一つであった[ 607] 。スウェーデンが日本の近代化 に果たした影響は列強諸国 と比べると大きくないが、一方でスウェーデン人お雇い外国人 の存在も1890年 までに23人確認できる[ 608] 。日露戦争 時にはストックホルム に北欧 で初めての日本公使館が設置され、ここが対ロシアの情報収集拠点となった[ 609] 。二度の大戦ではスウェーデンはいずれも中立を守り日本との外交関係を維持していたが[ 610] 、日本の敗戦 により一時断絶した。
戦後にはサンフランシスコ講和条約 を経て国交が回復し、現在では友好国として知られる[ 611] [ 612] 。現在、日本は人口減少 や少子高齢化 が社会問題となっているが、スウェーデンを含む北欧諸国 は1980年代 から1990年代 にいち早くこれを経験しているため[ 613] 、日本の比較モデルの一つとして注目が集まっている[ 614] 。政治的には対露政策や自由貿易の推進などで一致しており[ 615] 、また日・スウェーデン社会保障協定の締結が模索されている[ 616] 。経済的にはスウェーデンにとって日本は中国に次いでアジアで二番目に重要な貿易相手で[ 617] 、日本国内ではスウェーデンが発祥の家具量販店であるイケア が一定の人気を博す[ 618] 。また、ともにロイヤルファミリーとしてスウェーデン王室 と皇室 の関係も良好で[ 619] 、カール16世 は何度も日本を訪れている[ 620] 。文化面では俳諧 など日本の伝統文化 [ 621] 、漫画 など日本のサブカルチャー が受容されており[ 622] 、1935年 には北欧初の茶室 「瑞暉亭 」が建設され現在でも保存されている[ 623] 。
スペイン
フランシスコ・ザビエル の肖像画。
支倉常長 と渡欧に使われたサン・ファン・バウティスタ号 。
即位礼正殿の儀 に際して行われた安倍晋三 首相とフェリペ6世 の会談。
スペイン : スペイン も、ポルトガル と並んで日本が最初に接触した欧州 の国である。16世紀 から17世紀 にかけては織田信長 など戦国武将 の庇護のもと南蛮貿易 が推奨され[ 624] 、スペインやポルトガルが齎した文化は日本の衣食住にも影響を及ぼし南蛮文化 を生んだ[ 625] 。ここから現在に至るまでの文化交流でスペイン語 としては「プラザ 」[ 626] 、「シャボン 」[ 627] 、「ビロード 」[ 628] 、「ポンチョ 」[ 629] 、「ゲリラ 」[ 630] 、「カルデラ 」[ 631] 、「リアス 」[ 632] などが日本語 の中に吸収されていった[ 633] 。日西関係黎明期に来日したスペイン人 としてはフランシスコ・ザビエル (人種的にはバスク人 )が最も有名で、イエズス会 に所属する宣教師 として九州 や山口 で布教活動を実施[ 634] 。大村純忠 に洗礼 を施したコスメ・デ・トーレス や[ 635] 、フアン・フェルナンデス なども同様の活躍をした[ 636] 。また彼らに日本 での布教を決意させ案内したのはゴア に滞在していた日本人ヤジロウ であった[ 637] 。当時の貿易はその多くが布教活動を伴うものであったが、宣教師 ではなく商人 として日本 を訪れたアビラ・ヒロン がおり、彼は自らの見聞を『日本王国記 』として書き残している[ 638] 。政治家ビベロ も日本に漂着して『ドン・ロドリゴ日本見聞録 』を記し[ 639] 、ビスカイノ は金銀島探検 のため日本 に派遣され慶長三陸地震 に遭遇した[ 640] 。逆に日本人 としては1584年 には天正遣欧少年使節 がフェリペ2世 に[ 641] 、1615年 支倉常長 がフェリペ3世 に謁見している[ 642] 。1609年 には座礁したスペイン船の船員が地元住民や幕府に厚遇を受けた返礼としてスペイン から徳川家康 に機械時計 が送られた(徳川家康の洋時計 )[ 643] 。
しかし江戸幕府 成立以降、キリシタン禁教の強化と鎖国体制の完成によってスペイン との交流は断絶した[ 644] 。ただしオランダ風説書 を通じて江戸幕府 はスペイン の動向を把握しており、日本人町 では依然としてスペイン人 との交流が続いていた。国交が回復するのは明治 に入った1868年 の日西修好通商航海条約 の締結以後で[ 645] 、これもまたほかの欧米諸国 と結んだ条約同様に不平等条約 の一つであった[ 646] 。一方でスペイン はすでに大国 としての地位になく、そのためスペイン からのお雇い外国人 もほとんどおらず明治時点で日西の結び付きは限定された。1895年 には、台湾とフィリピンを隔てるバシー海峡 を両国の境界線にする条約が結ばれた[ 647] 。
1936年 にはスペイン内戦 が勃発し、フランコ政権 は日本に承認を要求する[ 648] 。これに加え独伊の要請もあり日本はフランコ政権を承認し、一方でフランコ政権は満州国 を承認して互いに外交的孤立を緩和した[ 649] 。第二次世界大戦 中、スペインは中立を守った一方で枢軸 側に寄った姿勢を見せた[ 650] 。1939年 には防共協定 にスペイン も参加し[ 651] 、さらには日独伊三国同盟 の加入も模索[ 652] 、戦時下では外務省 がアメリカ合衆国 の情報を得るためスペイン に諜報機関である東機関 を設置し[ 652] 、ベラスコ が日本のスパイ活動に協力した[ 653] 。しかし大戦末期になると枢軸国 の不利が鮮明となり関係は希薄化[ 652] 、マニラの戦い などを通じて対日感情も悪化しついには国交も断絶した[ 652] 。国交が回復したのは戦後の1952年 である[ 654] 。
1975年 のフランコ独裁体制 の崩壊以後は、民主主義 や自由主義 といった理念をともにする友好国として知られる[ 655] [ 656] 。特筆すべきはスペイン王室 と皇室 の緊密な交流で[ 657] 、親王時代の徳仁 が外交官時代の小和田雅子 と出会ったのは東宮御所 で開かれたトレド で活躍した画家の「エル・グレコ 」展覧会のレセプションであり、婚姻の重要な局面にもたびたびスペインが関わっていたとされる[ 658] 。貿易面ではスペインにとっての主要貿易相手国は多くが欧米 である[ 659] 。一方で2020年 の対日輸出・輸入はともに全体の構成比1%を超えるなど、日本は中国に次ぐアジアにおけるスペインの重要な貿易相手で[ 659] 、逆に日本にとってもスペインは重要なEU における経済パートナーである[ 659] 。安全保障上の繋がりは希薄だが、2021年 にはグアム にて海上自衛隊 の護衛艦 「ゆうぎり 」とスペイン海軍 が共同訓練を実施[ 660] 。スペインとの訓練は稀であり、海洋進出を強める中国を念頭にしたものであった[ 661] 。外交関係樹立150周年にあたる2018年 には関係を戦略的パートナーシップに格上げする共同声明が発表された[ 662] [ 663] 。
チェコ
1928年 にアントニン・レーモンド によって建築された旧イタリア大使館日光別邸 。
チェコ : オーストリア=ハンガリー帝国 の崩壊と同時に1919年 にチェコスロバキア として独立し[ 664] 、この時初めて外交関係が樹立された[ 665] 。戦間期 にはフランク・ロイド・ライト の助手としてチェコ人 建築家 のアントニン・レーモンド が来日し[ 666] 、旧イタリア大使館日光別邸 や聖路加国際病院 などを建築[ 667] [ 668] 。戦後にも日本に再来日し、群馬音楽センター などモダニズム建築 を建設した[ 669] 。第二次世界大戦 のため1939年 には国交が途絶えたが、1957年 に回復し体制移行後は急速に関係が進展した[ 665] 。
1993年 にチェコスロバキアは平和的に解体され[ 670] 、それ以降日本とチェコ は友好的な関係を築けている[ 665] [ 671] 。政治的には価値観を共有するパートナーとして認識されており[ 672] 、2003年 には戦略的パートナーの関係となった[ 673] 。経済的にはチェコにとって日本は中国に次ぐアジアで第二位の貿易相手国となっており[ 674] 、体制転換直後は経済支援の対象であったが、現在ではトヨタ の子会社が設立されるなど日系企業の中欧 における製造拠点として機能している[ 675] [ 676] 。2020年 には交流100周年を迎えた[ 677] 。
デンマーク
レゴ はデンマーク 発祥の多国籍企業 。レゴランド・ジャパン は世界で8番目に開業したレゴランド である。
デンマーク : デンマーク東インド会社 を通じて1600年代 初頭にはわずかな接点があったとされるが[ 678] [ 679] 、正式な国交の樹立は1867年 の日丁修好通商航海条約 締結による[ 678] 。それに先んじた1866年 にはデンマーク人 鉱山技師フレデリック・クレブス がお雇い外国人 として三菱 に入社し後に幹部まで出世した[ 680] 。1871年 には岩倉使節団 がデンマーク に立ち寄りクリスチャン9世 に謁見した[ 681] 。1895年 には日本・デンマーク通商航海条約 が締結され不平等条約 が改正された[ 678] 。
明治・大正期には農業 の理想国として知られ、1911年 に内村鑑三 が『デンマルク国の話:信仰と樹木とを以て国を救ひし話』を講演しエンリコ・ダルガス の植林事業を優れた施策として紹介[ 682] 。1912年 には東郷実 がデンマーク の農業改革を高く評価し『丁抹農業論 』を著した[ 683] 。1923年 には北海道庁 が模範農家を招聘している[ 684] [ 685] 。安城 を中心とした碧海郡 は先進的な農業体制から「日本丁抹」と呼ばれた[ 686] 。教育面ではデンマーク の教育機関フォルケホイスコーレ を参考に[ 687] 、1926年 には加藤完治 が日本国民高等学校 を[ 688] 、1936年 には松前重義 が東海大学 の母体となる私塾を開設[ 689] 。この時に形成された農業 と教育 の国というデンマーク のイメージは現在でもある程度維持されている[ 690] 。また交通面ではデンマーク軍人によって世界で初めて飛行機 でコペンハーゲン と東京 が往復される偉業も達成されている[ 691] 。
第二次世界大戦 後は外交関係が再構築され、現在では友好国として知られている[ 692] [ 693] 。経済面では2011年 の時点で日本はデンマークにとってアジアで二番目の貿易相手となっており[ 694] 、日本に進出するデンマーク企業としてはレゴ が知られ半世紀にわたって人気を博しており[ 695] 、2017年 には名古屋市 に東アジア 初のレゴランド・ジャパン・リゾート がオープンした[ 696] [ 697] 。政治的には法の支配 や自由貿易 の推奨、北極政策など様々な面で立場を共にしており[ 698] 、戦略的パートナーとされる一国である[ 699] 。また皇室 とデンマーク王室 の関係も伝統的に良好である[ 700] 。
ドイツ
板東俘虜収容所 の収容者たちが建設したドイツ橋 。
日独防共協定 に調印するリッベントロップ 外相とそれを見守る武者小路公共 駐独日本大使(1936年11月25日)。
訪独し、アドルフ・ヒトラー 総統との会談に臨む松岡洋右 外務大臣 (1941年 3月)。
安倍晋三 とアンゲラ・メルケル の握手。2017年 。
ドイツ : 幕末 の時点で長崎 におけるオランダ との貿易を通じてシーボルト やケンペル などドイツ人 が日本に滞在することはあったが[ 701] [ 702] 、正式な日独関係 の開始は1861年 1月24日 のF.A.オイレンブルク のによる日普修好通商条約 の締結で幕を開けた[ 703] [ 704] 。プロイセン が中心となって統一を果たしたドイツ帝国 は日本が近代化を進めるにあたってイギリスおよびアメリカ との関係に次いで重要な役割を果たし[ 705] 、例えばドイツ を訪れていた伊藤博文 はグナイスト とシュタイン から憲法 や法学 を学んでいる[ 706] [ 707] 。また代表的なドイツ系お雇い外国人 としてモッヘ やロエスレル が実際に大日本帝国憲法 の起草に貢献し[ 708] 、ベルツ やミュルレル [ 709] [ 710] 、スクリバ が医学 を[ 711] 、ナウマン が地質学 を[ 712] 、ラートゲン が経済学 を[ 713] 、ケルネル が土壌学 を[ 714] 、クニッピング が気象学 を[ 715] 、リース が科学的な歴史学 を[ 716] 、ワグネル が陶磁器 やガラス の製造を伝え[ 717] 、日本陸軍 は特に普仏戦争 以後はメッケル の指導のもとドイツ陸軍 をモデルに装備・戦略・制度などの整備を進めた[ 718] [ 注釈 9] 。逆に森鷗外 はドイツ に留学して衛生学 ・栄養学 ・細菌学 を学んだ[ 719] 。他方、日本が日清戦争 ・日露戦争 で勝利し次第に欧米列強 に匹敵するほどの国力を持つようになったことでドイツの皇帝 ヴィルヘルム2世 やマックス・フォン・ブラント をはじめ黄禍論 を唱え[ 720] [ 721] 、1895年 にはロシア やフランス と共に日本 に三国干渉 をかけて遼東半島 を清 に返還させ[ 722] 、その後曹州教案 を理由に1898年 山東半島 南部の膠州湾租借地 を獲得した。
第一次世界大戦 では日本とドイツは交戦国になり、青島の戦い などで衝突した[ 723] 。捕虜は板東俘虜収容所 などに送られ、そこでの捕虜に対する人道的な扱いは戦後の日独友好関係に寄与した[ 724] 。捕虜は地元住民との交流が許されビールやドイツ料理を伝えたほか[ 725] 、建築技術の披露としてドイツ橋 が建設され現在でも史跡として残っている[ 726] 。戦後、勝利した日本はアジア太平洋 や中国におけるドイツ権益を引き継いだ[ 727] 。その後、日中戦争 の際には日本 と対立する国民党軍 へドイツ軍事顧問団を派遣したり武器給与を行うなどの中独合作 を実施したが[ 728] 、第二次世界大戦 では両国は対ソ連を意識して防共協定 や日独伊三国軍事同盟 を結んだ[ 729] 。だが同盟はついに実効的なものとはなり得ず[ 730] 、両国は互いに不本意ながらアメリカ ・イギリス ・ソ連 を敵に回しついに敗北するという結末となった[ 731] 。
戦後、ドイツは冷戦の開始により東西に分割された。その二国のうち、西ドイツ とは1952年 に国交を回復[ 732] 。焼け野原から共に奇跡の復興を果たした経済大国 として平和的な関係に発展し[ 733] 、重要な経済的パートナーとしてイギリスやフランスを凌ぐ欧州最大の貿易相手国へと成長した[ 734] [ 735] 。政治的にはともに1975年 からG7 に参加しており、日本はアジア最大の、西ドイツ は欧州最大の経済力を背景にそれぞれ発言力を強めた[ 733] 。他方、ソ連 の強い影響下に置かれ東側諸国 となった東ドイツ に対しては、西ドイツ政府への配慮もあり日本との外交関係樹立は遅れたが1972年 に東西ドイツ基本条約 が締結したことによって国交が樹立した[ 736] 。東ベルリン では鹿島建設 によって1978年 に国際貿易センタービル が竣工し[ 737] 、その後も西ドイツよりも小規模ながら比較的安定した外交関係が1990年 のドイツ再統一 まで続いた[ 738] 。1989年 2月の昭和天皇 の葬儀・大喪の礼 に際し、東ドイツからはマンフレート・ゲルラッハ 国家評議会副議長 が、西ドイツからはリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー 大統領 が参列した[ 739] 。
ドイツ再統一 後も、日独の友好は保たれている[ 733] [ 740] 。経済的には未だに日本にとってドイツは欧州最大のパートナーであり[ 741] 、一方でドイツにとって日本は中国に次ぐアジア第二位の貿易相手である[ 733] 。2020年 のドイツの対日輸出は構成比1.4%、対日輸入は構成比2.1%を占める[ 742] 。一方で経済的な競争も存在し、特に自動車産業 においてはフォルクスワーゲン 、メルセデス・ベンツ 、BMW 、アウディ に代表されるドイツ車 は日本車 と世界シェアを争っている状況にある[ 743] 。日本における輸入車 の販売数国別トップはドイツ車 で2010年 以降はその売り上げが失速しているものの6割超を占め[ 744] 、他方ドイツでは一定の人気を博しているものの最大でトヨタ の2.3%、各社合計でも1割以下であるなど日本車 のシェアは大きくない[ 745] 。
国際政治の面では、国際連合 の国際連合安全保障理事会の改革 では日独両国が常任理事国 になる案も有力で[ 746] 、この点では両国はともにG4諸国 として協力関係にある[ 747] 。安全保障においてはドイツはアジアに海外領土 を持たないため、直接日本と関わることは少ないが、2021年 には中国牽制のため日本にフリゲート艦 が寄港し[ 748] [ 749] 、同年には自衛隊 ・ドイツ軍 による共同訓練も実施され[ 750] 、安保協力議論のための日独2プラス2も初めて開催[ 751] 。また米仏豪英印伊韓およびNATOに続いて日本と軍事情報包括保護協定 も締結するなど[ 752] [ 753] 、準同盟的な関係を強めている[ 754] 。文化的な交流として代表的なのはサッカー で、1964年 の東京オリンピック に向けた日本代表 (男子)の強化コーチであったデットマール・クラマー が日本代表をベスト8へと導き、他に日本サッカーリーグ の創設など日本サッカー界の礎を築いたことから「日本サッカーの父」として知られる[ 755] 。また近代化におけるドイツの影響から日本語におけるドイツ語の借用 は現在でも見られる[ 756] 。かつてカルテ はすべてドイツ語 で書かれていたように医学 でそれは顕著であり[ 757] 、ほか日常生活で一般化しているものとしては労働を意味する「アルバイト 」[ 758] 、馬の背に敷く布から派生して「ゼッケン 」[ 759] 、童話や小話を意味する「メルヘン 」[ 760] 、日独同様の意味で「エネルギー 」[ 761] 、紋章 を意味する「ワッペン 」[ 762] 、加えて音楽 用語や登山用語 [ 763] 、スキー 用語[ 注釈 10] 、写真 用語にもドイツ語 は多く見られる[ 注釈 11] 。
ハンガリー
ハンガリーの都市エステルゴム に所在するマジャールスズキ の工場は、2007年時点で6,300人以上の従業員を抱える。
ハンガリー : 両国の交流は18世紀 後半から始まった。1771年 にはモーリツ・ベニョヴスキー が千島列島 から下って四国 阿波国 (現在の徳島県 )や奄美大島 に至っており[ 764] 、彼がオランダ商館 に送った手紙はロシア帝国 が千島列島 に要塞を築いているという内容を含んだもので[ 765] 、林子平 などがロシア の脅威を説くきっかけとなった[ 766] 。1846年 にはバーナード・ジャン・ベッテルハイム が琉球王国 に漂着。聖書 を琉球語 に翻訳し伝えたほか[ 767] 、種痘 を伝授し[ 768] 、英琉辞書を編纂し[ 769] 、イギリスの対琉政策に影響を及ぼし[ 770] 、1854年 琉米修好条約 の締結のためマシュー・ペリー が来琉した際には琉球語 の能力や知識が認められ彼のもとで働いた[ 771] 。
正式な国交の成立はオーストリア=ハンガリー帝国 時代の1869年 に日墺修好通商航海条約 が締結されたことに始まる[ 491] 。近代化にも一定の影響を及ぼし、明治政府の騎兵隊は馬 をハンガリー から購入し[ 772] 、また多くの陸軍士官がハンガリーで訓練を受けた[ 772] 。19世紀 末にはハンガリー にもジャポニズム が波及し[ 773] 、日本語教育 が開かれるなど日本が多方面で注目されるようになった[ 774] 。またツラニズム やウラル・アルタイ語族仮説 の影響でハンガリー語 と日本語 の類似点が指摘され[ 775] 、マジャル人 と大和民族 が同祖であるという思想も広まった[ 776] 。日露戦争 の日本勝利はハンガリーでは好意的に受け止められたが[ 777] 、第一次世界大戦 では対立し帝国は瓦解。新たに誕生したハンガリー王国 はツラニズム に基づきより一層日本との文化交流を進め[ 778] [ 779] 、友好の印としてホルティ提督 は昭和天皇 に対して駿馬を送っている[ 780] 。第二次世界大戦 では日本と同じ枢軸側 に立った[ 781] 。
戦後は1959年 に国交が復活。冷戦の中、今岡十一郎 などが『ハンガリー語辞典』を編纂するなど友好に尽力し[ 776] 、1989年 の体制転換以降の交流は活発である[ 782] 。経済的にはスズキ が設立した現地法人マジャールスズキ は乗用車の生産能力を持ち、東欧 のみならず欧州全域 に日本車 を供給する一大生産拠点となっている[ 783] 。貿易においては日本はハンガリーにとって中国に次ぐアジアで二番目に重要な貿易相手で[ 784] 、2020年の対日輸出の構成比は0.6%[ 784] 、対日輸入の構成比は1.2%だった[ 784] 。また政治や安全保障、科学技術の分野でも協力が進んでいる[ 785] 。2019年 には東京 にハンガリー文化研究所が開設された[ 786] 。一方でハンガリー政府は国内の反発があるにも拘らず日本と諸分野で問題を抱える中国に接近する姿勢を見せており[ 787] [ 788] 、不安定さをはらんでいる。
フランス
1858年 、江戸 での日仏修好通商条約 締結の様子。
1867年 、第1回フランス軍事顧問団 が送られる。前列右から2人目がジュール・ブリュネ 。
1898年 、日本 で初めて自動車 パナール・ルヴァッソール が走る。
2015年 、安倍晋三 内閣総理大臣 (当時、右側)とフランソワ・オランド 仏大統領 (当時、左側)の会談。
フランス : 歴史的な接触は17世紀 に遡り、1615年 に仙台藩 の伊達政宗 がローマ に派遣した慶長遣欧使節 の支倉常長 がサントロペ に上陸したことが日仏関係 の始まりとされる[ 789] 。その後フランソワ・カロン がフランス東インド会社 を通して日本との交易関係を確立しようとしたもののこれは失敗に終わった[ 790] 。しかし幕末にはオランダ風説書 によってフランス革命 の状況が伝わり幕府 が興味を示すなど間接的な交流は存在していた[ 791] 。1858年 にはグロ男爵 の来訪で安政の五か国条約 に数えられる不平等条約 ・日仏修好通商条約 が締結されて外交関係が開設され[ 792] [ 793] 、下関戦争 や神戸事件 では一時的に戦闘に陥るも国交が断絶することはなく[ 794] [ 795] 、またブリュネ に代表されるフランス軍事顧問団 やフランス公使ロッシュ などが戊辰戦争 や箱館戦争 では幕府側に立つなど[ 796] [ 797] 、幕末 には米英と並んで強い影響力を持った。
日本の近代化の過程でフランスは米英独に次いで重要な役割を果たしており、特にボアソナード は不平等条項の撤廃のため日本の国内法の整備に大きな貢献を果たし「日本近代法の父」と呼ばれている[ 798] 。ほか建築や開発面でフランスの影響は大きく、幕末にはヴェルニー が横須賀造兵廠 や横須賀海軍施設ドック の建設を指導し[ 799] 、コワニエ が生野銀山 の開発に尽力した[ 800] 。明治期になると プレグラン が日本初となる日本橋 、銀座 、横浜 でのガス灯 設置の指揮を執り[ 801] 、ボアンヴィル が皇居 を設計、ブリューナ やバスチャン が富岡製糸場 の設立に貢献している[ 802] 。ほか、大日本帝国海軍 を増強したベルタン [ 803] 、通訳や翻訳家として様々な事業の橋渡し役を担ったデュ・ブスケ [ 804] 、フランスに戻って日本の歴史 を伝えたモンブラン [ 805] 、画家として雇われ数々の風刺画 を残したビゴー [ 806] 、植物学 に貢献したサヴァティエ [ 807] 、大浦天主堂 を建設し隠れキリシタン 発見に貢献したプティジャン など特異な活躍をした者もいる[ 808] [ 注釈 12] 。一方である程度の近代化 が果たされると黄禍論 に影響されてロシア帝国 やドイツ帝国 とともに三国干渉 を行い、また露仏同盟 に基づいて日露戦争 ではロシア帝国 を支持するなど日本 と敵対的な姿勢を取った[ 809] 。
日露戦争 後は日仏協約 が締結されて関係は一定程度改善し[ 810] 、第一次世界大戦 ではともに連合国 として参戦した。その後設立された国際連盟 ではともに常任理事国 を務めた。またこの頃には渋沢栄一 と駐日フランス大使クローデル の尽力で日仏会館 が設置され[ 811] 、大戦以前より渡仏していた画家 の藤田嗣治 がパリ で成功を収め[ 812] 、岡本太郎 も渡仏した[ 813] 。第二次世界大戦 では早期にフランス第三共和政 が降伏し、その代わりに建ったヴィシー政権 とは当初仏印進駐 などで対立するも[ 814] 、ともに枢軸国 としてマダガスカルの戦い などで共闘している[ 815] 。一方でシャルル・ド・ゴール を中心とした自由フランス が対日宣戦布告をしたが、実際の戦闘は発生しなかった[ 816] 。
戦後は国交回復を経て一定の友好関係を取り戻した[ 817] [ 818] 。1975年 からはともにG7 にも参加しており多くの場面で立場を共にする[ 817] 。ただしフランス政界での対日観は非常に多様であり、日本文化 の愛好家として知られたジャック・シラク など親日家がいる一方で[ 819] 、フランス首相 を務めたエディット・クレッソン やニコラ・サルコジ [ 注釈 13] は反日的な姿勢を示すなど[ 820] [ 821] 、一部には強硬な反日派もおり不安定さをはらんでいる。その繋がりは政治よりも文化面で特に顕著であり、美術 、音楽 、食文化 、文芸 、建築 、芸能 、服飾 、美容 などは日本の文化にも大きな影響を与え[ 822] 、これら分野の用語にはフランス語からの借用 も多い[ 823] 。例えば美術 面では本来鉛筆 を意味する「クレヨン 」や「アトリエ 」[ 824] [ 825] 、服飾 なら「マネキン 」や「ブティック 」[ 826] [ 827] 、美容 では「ルージュ 」や「サロン 」[ 828] [ 829] 、食文化 なら「カフェ 」や「コンソメ 」[ 830] [ 831] 、「ソムリエ 」や「メニュー 」などが[ 832] [ 833] 、いずれもフランス語 を由来とし日常会話の中で定着した[ 注釈 14] 。一方でフランス は日本文化 の支持者が多い国である[ 834] 。19世紀 後期はジャポニズム として浮世絵 や日本画 、書道 や陶磁器 といった伝統文化がフランス に受容され、ゴッホ やモネ 、セザンヌ やルノワール などに影響を与えた[ 835] 。現代ではゲーム やアニメ 、漫画 などサブカルチャー を中心に人気を博す[ 836] [ 837] 。
経済面では競合関係にあり、特に高速鉄道 や原子力発電所 [ 注釈 15] の受注では激しい競争を展開する[ 838] [ 839] 。韓国 や中国 ではTGV が導入されたほか[ 840] 、ITER でもフランスが誘致合戦に勝利した[ 841] 。一方で科学技術開発においては原子力エネルギー 分野など緊密な協力関係が構築され[ 842] [ 843] 、2005年 にはコンコルド の後継となる次世代型超音速商業飛行機 の日仏共同開発を発表するなど[ 844] 、多面的な利害関係にある。安全保障上での協力は2010年代 以降、海洋進出を強める中国を念頭に急速に拡大している[ 845] 。2011年 には日仏情報保護協定 が締結され[ 846] 、これはアメリカ 以外の国家と結ぶ初の軍事情報包括保護協定 となった[ 847] 。2015年 には無人機などを中心に兵器の共同開発を進めていく方針が示され[ 848] 、2019年 には自衛隊 とフランス軍 との間で物品を融通する日・仏物品役務相互提供協定が締結[ 849] 。2021年 にはフランス軍が初めて日本の陸上演習に参加し[ 850] 、2022年 にはフランス は日本をパートナー国に格上げしている[ 851] 。また日本の常任理事国 入りにも賛成の姿勢を見せるなど[ 852] 、日仏は安全保障で協調している。
ベルギー
2018年ロシアワールドカップ における日本とベルギーの試合(2018年 7月2日 )。「ロストフの死闘」として知られる。
ベルギー : 両国との交流は1588年 、イエズス会 宣教師 であるテオドロ・マンテルス が長崎 に上陸したことに遡る[ 853] 。1866年 には不平等条約 の一つである日白修好通商航海条約 を締結し正式な外交関係が始まった[ 853] [ 854] 。1873年 には岩倉使節団 がベルギー を訪れ国王 レオポルド2世 に謁見している[ 855] 。日本の近代化にも一定の影響を及ぼし、ベルギー人 のお雇い外国人 もわずかに確認できるほか[ 608] 、明治 初期には日本 の模範の一つとされた[ 854] 。例えば1877年 には周布公平 が本格的なベルギー紹介書である「白耳義国志 」を著わした[ 856] 。また久米邦武 、井上毅 、矢野龍渓 等もベルギーを小国ながら大国に伍していると評価し、模範国の一つとするべきであると紹介している[ 857] 。さらに陸軍 は大国の間にあって中立を堅持しているベルギー の軍事力に注目し、山縣有朋 、有栖川宮熾仁親王 、野津道貫 らが視察に訪れ、また多くの士官を留学生として派遣した[ 857] 。
第一次世界大戦 ではベルギーはドイツ帝国 の侵攻を受けた[ 858] 。この時、日本におけるベルギーへの注目はにわかに高まり[ 854] 、フランスやベルギーに在住していた日本人がフランス兵やベルギー兵に救護を行い[ 859] 、また東京や大阪では義捐活動も展開されていた[ 854] 。また友好の印として日本刀 が朝日新聞 から国王アルベール1世 に献上されている[ 860] 。第一次大戦 後は初代駐日ベルギー大使 としてアルベール・ド・バッソンピエール が着任し日本 を好意的に伝えた[ 861] [ 862] 。第二次世界大戦 ではベルギーの戦い ののちナチス・ドイツ に占領されたため、日本と直接的な接点は持たなかった[ 854] 。
サンフランシスコ講和条約 を契機に戦後は国交が回復し、現在では友好国として知られる[ 863] [ 864] 。経済的には、2020年 のベルギー の対日輸出は構成比1%、対日輸入は構成比3%で、ベルギーにとって日本は中国やインドに次ぐ主要貿易相手となっている[ 865] 。また国際政治や安全保障でも協調姿勢が示されており[ 866] 、2021年 には中国の海洋進出を念頭に自衛隊 ・アメリカ軍 ・フランス軍およびベルギー軍 による共同訓練が実施された[ 867] 。ベルギー王室 と皇室 の関係も伝統的に良好で[ 868] [ 869] 、友好150周年にはベルギー国王夫妻を招いた宮中晩餐会が開かれた[ 870] 。また1969年 には日本・ベルギー協会 が設立されこれが民間交流を促進[ 871] 。スポーツではサッカー の繋がりが顕著で、2018年ロシアワールドカップ における日本対ベルギー戦は日本が最もベスト8に迫ったことから[ 872] 「ロストフの死闘」としても有名である[ 873] 。
ポーランド
1930年 、ワルシャワ にて懇談するユゼフ・ピウスツキ と高松宮宣仁親王 。
ポーランド : 1642年 にポーランド人 のイエズス会 宣教師 ヴォイチェフ・メンチンスキー が鹿児島県 に上陸しており[ 874] 、これが日本とポーランドの初めての接触である。逆に日本人が初めてポーランドを訪れたのは1892年 で、ユーラシア大陸 を横断中の福島安正 少佐が独露支配下のポーランド地域を訪れている[ 875] 。日露戦争 のさなかの1904年 には後に「ポーランド建国の父」と呼ばれるユゼフ・ピウスツキ が兄のブロニスワフ とともに来日しており[ 876] 、ピウスツキは対露で一致する日本に好意的でポーランド軍団の対露参戦も検討していた[ 877] 。また兄のブロニスワフはアイヌ など民俗学 の研究者でもあった[ 878] 。彼らの要望もあって日露戦争 の捕虜は松山 に収容されたが、中でもポーランド人兵士は厚遇されたことが知られている[ 879] 。また日露戦争 の日本の勝利はロシア帝国 に支配されるポーランド人 の民族意識に少なからず影響を与えたとされる[ 880] 。
ドイツ革命 、ロシア革命 の混乱のさなか、1918年 にポーランド は独立を果たした[ 881] 。1919年 に日本はこれを承認し、1922年 には日本国波蘭国間通商航海条約 が締結された[ 882] 。戦間期 にはシベリア出兵 で日本兵が当地に残留していたポーランド人孤児を救出し[ 883] 、「アウシュビッツの聖者」として知られるマキシミリアノ・コルベ やゼノ・ゼブロフスキー が長崎 で宣教活動を実施するなど[ 884] [ 885] 、両国の関係は比較的安定したものだったが[ 886] 、第二次世界大戦 ではポーランドはドイツやソ連に占領され、国交が途絶えた。この間、初代駐日ポーランド大使のタデウシュ・ロメル は杉原千畝 の尽力により日本に避難してきたユダヤ人 に対してアメリカやカナダへの渡航を許可するビザ を発給し[ 887] 、命のバトンを繋いだと評価されている。
戦後 は冷戦 の影響で社会主義 となったポーランド人民共和国 と1957年 に国交を再開し[ 888] [ 889] 、体制転換後は同じく資本主義 や民主主義 を標榜する友好国として関係が緊密化している[ 890] [ 891] 。政治的にはウクライナ支援や対露で方針が一致しており[ 892] 、2015年 には戦略的パートナーの関係となった[ 893] 。日本の常任理事国 入りにも支持を示している[ 894] 。また経済成長 に伴って日本にとってポーランドはEU加盟国 のうち主要な貿易相手へと成長しつつあり、2020年 のポーランドの対日輸入は構成比1.9%を占めていた[ 895] 。予てより西欧向けの製造拠点が多く置かれていたが[ 896] 、現在では消費市場としての魅力も注目されている[ 897] 。寿司 など日本文化も浸透しており[ 898] 、欧州 随一の親日国 として知られる[ 899] 。2019年 には国交樹立100周年を迎えた[ 900] 。
ポルトガル
17世紀 、長崎 のポルトガル商船を描いた南蛮屏風の一部(リスボン国立古美術館 所蔵)。
徳島県 徳島市 のモラエス通り にあるモラエス像。
大分県 大分市 にある西洋医術西洋医術発祥記念像。中央がルイス・デ・アルメイダ 。
ポルトガル : ポルトガル は日本が最初に接触した欧州 の国である。大航海時代 に入るとポルトガルは覇権国 として東南アジア や東アジア へ進出し始め[ 901] 、その過程で1543年 ポルトガルの商船が大隅国 種子島 に漂着した[ 注釈 16] [ 902] [ 903] 。そして彼ら商人によって日本 に鉄砲が伝来 した[ 注釈 17] ことが『鉄炮記 』によって知られており[ 904] 、これは戦国時代 の日本 に大きな軍事的変革を齎している[ 905] 。桶狭間の戦い や長篠の戦い 、関ヶ原の戦い などはいずれもその勝敗に鉄砲 (火縄銃 )の保有数や戦略が大いに関係していた[ 906] 。この接触以後、織田信長 や大友義鎮 などを代表とする戦国大名 の庇護のもとで南蛮貿易 が推奨され[ 907] 、ポルトガルはマカオ を拠点に日本・中国・琉球 ・ポルトガルを結ぶ貿易システムを形成した[ 908] 。この時、日本にはカボチャ ・スイカ ・トウモロコシ ・ジャガイモ ・地球儀 ・眼鏡 ・煙草 などの物品が流入した。また南蛮貿易 は布教活動 や技術・知識の伝播を伴うもので、ポルトガル人 宣教師 ルイス・フロイス は布教活動の傍ら『ヨーロッパ文化と日本文化 』と『フロイス日本史 』を記し[ 909] 、ジョアン・ロドリゲス も『日本大文典 』を記している[ 910] 。ルイス・デ・アルメイダ は西洋医学 を持ち込み日本初の病院 を開いた[ 911] [ 912] 。1549年 に来日したフランシスコ・ザビエル はスペイン人 であるが東アジア に赴いたのはポルトガル王 ジョアン3世 の依頼である[ 913] 。布教活動の影響から日本にはキリシタン大名 が生まれ、天正遣欧少年使節 もリスボン に寄港している[ 914] 。1603年 にはイエズス会 によって『日葡辞書 』が発刊された[ 915] 。
しかし豊臣秀吉 政権下では、当初は南蛮貿易 が推し進められたもののバテレン追放令 で一転してポルトガル人 を含む宣教師 は追放された[ 916] 。その背景には植民地拡大への危機感や日本人奴隷問題など諸説ある[ 917] 。江戸幕府 もこの政策を踏襲し、徳川家康 がキリスト教禁止令 を出した[ 918] 。さらに幕府 は当時ポルトガル と同君連合 の関係にあったスペイン との関係を断ち切ったことで、ポルトガル との交流は17世紀 中盤にいったん途絶している[ 919] 。ただし東南アジア の各地にあった日本人町 では依然としてポルトガル人 との交流が続いており、また幕府 もポルトガル の動向はオランダ風説書 を通じて把握していたとされる。
幕末 にあたる1860年 には日葡修好通商条約 が締結され国交が樹立し[ 920] 、およそ200年ぶりに通商関係が再開された[ 921] 。なお、これもほかの欧米諸国 と結んだ条約同様、不平等条約 の一つである。一方でポルトガルはこの時点で大国 としての地位は大きく衰えておりアジアの植民地 の大部分を喪失していて、貿易の拠点となったのはティモール島 とマカオである。日本の近代化に果たした影響も限定的で、ポルトガル人のお雇い外国人としては日本の簿記 を改革したヴィセンテ・ブラガ が知られているのみである[ 922] 。また外交官 として来日していたヴェンセスラウ・デ・モラエス は日本を賛美する著書を残し、モラエスの死後に日葡関係 への貢献が評価された[ 923] 。第一次世界大戦 ではともに連合国 として戦ったが、第二次世界大戦では日本軍によってティモール島を占領され[ 924] 、一部のポルトガル人 は連合国 の協力者と見做され収容されたことを証言している[ 925] 。この時、日本とポルトガルの関係は再び断絶し、戦後に回復している[ 926] 。
現在では友好国として知られる[ 926] [ 927] 。政治面では資本主義 ・自由主義 ・民主主義 ・平和主義 や法の支配 といった多くの価値観を共有しており[ 928] 、協力関係が築かれている[ 929] 。ただし鎖国 以前ほど結びつきは強くなく、従って経済関係の規模も欧州主要国と比較してあまり大きくない[ 930] 。ただし、ポルトガルは世界最大の天然コルク 生産国および輸出国であり[ 931] 、日本でも高いシェアを誇る[ 930] 。一方でポルトガルは欧州の中でも比較的賃金が安いことを背景に生産拠点として魅力が高く[ 932] 、日産 がリチウムイオン電池 工場を建設し[ 933] 、信越化学 はポルトガル企業の子会社化により欧州市場への進出を果たした[ 934] 。文化面での繋がりは経済や政治以上に強く、欧州 で最初に日本と直接交流を持った国であることが関係してポルトガル語から日本語へ借用された言葉は多い[ 935] 。その中でも現代で一般的に使われているものとしては食品 として「パン 」[ 936] や「ビスケット 」[ 937] や「ボーロ 」[ 938] 、服飾 に関連して「合羽 」[ 939] や「ボタン 」[ 940] 、またそのほか「シャボン 」[ 941] や「ビードロ 」[ 942] 、「じょうろ 」[ 943] などが挙げられる[ 944] 。
マルタ
イギリス
皇帝(大御所徳川家康 )の前のウィリアム・アダムス 。 薩英戦争 の様子。イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘。
1905年 、日英同盟 を記念した絵葉書。
2017年 、安倍晋三 内閣総理大臣 (当時、右側)とボリス・ジョンソン 英外相 (当時、左側)の会談。
イギリス : 日英関係 は16世紀 末の1600年 に遡る[ 945] 。オランダ船リーフデ号 が豊後国 (大分県 )に漂着し、乗船していたイギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針) が徳川家康 の外交顧問となり最終的には武士 の地位も与えられた[ 946] 。その後イギリス商船が来日し平戸 にはイギリス商館 が開設されて通商関係が確立されるも[ 947] 、ほどなくしてオランダ商館 との競合から思うように対日貿易は伸びず、イギリスも日本から一方的に撤退した[ 947] 。その後貿易再開を求められるも[ 948] 、鎖国体制 下ということもあり実現しなかった。ただしナポレオン戦争 の余波が極東 にまで及び1808年 にはイギリス軍艦がオランダ船拿捕を目的として長崎港 に進入するフェートン号事件 が起きたほか[ 949] 、オランダ人 の協力で初の英和辞典 『諳厄利亜語林大成 』が1814年 に完成[ 950] 、また1835年 には山本音吉 が初めてロンドン を訪れるなど意図しない交流は起きていた[ 184] 。
1854年 には日英和親条約 [ 951] 、1858年 に日英修好通商条約 と不平等条約 が立て続けに結ばれた[ 952] 。こののちオールコック が英国総領事館 を開設し[ 953] 、グラバー は長崎 を造船の町へと変貌させ高島炭鉱 の開発・経営も実施し[ 954] 、アーネスト・サトウ は日本学 の基礎を築くなど[ 955] 、幕末 からイギリスは日本の近代化に貢献した。一方で対英感情は決して良いものではなく、1861年 には東禅寺事件 が[ 956] 、1862年 には生麦事件 およびそれに起因する薩英戦争 が[ 957] [ 958] 、1863年 には英国公使館焼き討ち事件 が[ 959] 、1864年 にはイギリスを含む欧米 と下関戦争 が発生するなど[ 960] 、日英関係は不安定であった。しかし、イギリスの実力を目の当たりにした薩摩藩 や長州藩 は反英から親英に転換していき[ 961] 、戊辰戦争 でイギリスは実質的に新政府側 を支援て明治維新 後は急速に接近[ 962] 。イギリスは日本の近代化に大きな影響を齎した[ 963] 。1900年 までのイギリス人 お雇い外国人 は4,353人で最も多く、新橋 ‐横浜 間の日本初の鉄道 建設を主導したモレル [ 964] 、西洋式技術教育を導入したダイアー [ 965] 、泉布観 設計など煉瓦 技術を持ち込んだウォートルス [ 966] 、鹿鳴館 を設計したコンドル [ 967] 、日本の電気工学 の礎を築いたエアトン [ 968] 、主要港の灯台 を建設し「日本灯台の父」と呼ばれるブラントン [ 969] 、古墳 を研究し「日本考古学の父」と称されるゴーランド [ 970] 、日本の書物を英訳したB.H.チェンバレン [ 971] 、「日本吹奏楽の父」と呼ばれ君が代 作曲にも携わったフェントン [ 972] 、測量 や気象観測 の技術を伝えたマクヴェイン など[ 973] 、活躍した分野は多岐にわたる。
1886年 にはノルマントン号事件 が発生[ 974] 。これを契機に不平等条約改正の声が高まり[ 975] 、1894年 日本はイギリスと日英通商航海条約 を結び他国に先んじて条約改正を果たした[ 976] 。1902年 にはロシア への対抗として日英同盟 を結び[ 977] 、これに基づいて日露戦争 でイギリスは好意的中立を日本に示し、日本の戦費調達を金融面で支えた[ 978] 。第一次世界大戦 やシベリア出兵 ではともに同じ立場で参戦した[ 979] 。しかし戦間期には日米英仏による四カ国条約 に拡大解消される形で日英同盟 は失効し[ 980] 、盧溝橋事件 や浅間丸事件 を経て次第に日英関係は悪化、ついには第二次世界大戦 で衝突した[ 981] 。日本軍とイギリス軍 との間での激戦は数多く、マレー作戦 や香港の戦い 、シンガポールの戦い 、インパール作戦 などが知られている[ 982] 。終戦後、イギリスはイギリス連邦占領軍 が連合国の日本占領 に参加した[ 983] 。
現在ではともにG7 に参加するなど安定した友好関係が築かれている[ 984] [ 985] 。安全保障上の結び付きは中国 を念頭に2010年代 以降急速に強まっており[ 986] 、2014年 から日英共同によるF35 戦闘機搭載のミサイル 研究が進められているほか[ 987] 、2013年 には日英防衛装備品・技術移転協定 および日英情報保護協定 が署名され[ 988] [ 989] 、2015年 からは日英2プラス2 が定期開催されている[ 990] 。2017年 には自衛隊とイギリス軍とで物品を融通し合う日・英物品役務相互提供協定が締結され[ 991] 、イギリス軍に弾薬の提供が可能になった[ 992] 。また2021年 には空母 クイーン・エリザベス が日本に初来航し[ 993] [ 994] 、自衛隊とイギリス軍の共同訓練も回数が重ねられ[ 995] 、両国部隊が入国しやすくなり共同訓練を円滑に進められるための協定締結も模索されるなど[ 996] 、その協力関係の深化は「新・日英同盟」とも言われる[ 997] [ 998] 。また「自由で開かれたインド太平洋」や脱炭素へ向けた取り組みなどでも同じ立場にある[ 999] 。
貿易面では、イギリスにとって日本は中国本土 や香港 に次ぐ主要なアジアの貿易相手であり、日本にとってもイギリスは重要な欧州の貿易パートナーである[ 1000] 。またイギリスのEU脱退 を受けて2020年 には改めて日英包括的経済連携協定 (日英EPA)が締結され[ 1001] 、自由な経済交流が推し進められている[ 1002] 。一方でともに大国として経済的な競争も展開されている。イギリスが日本の近代化に大きく影響したこともあって、幕末から文化面における関係も緊密である。その代表的なものが皇室 とイギリス王室 との交流であり[ 1003] 、昭和 末期には、令和 における天皇である徳仁がオックスフォード大学 に留学しテムズ川 の水運史を研究している[ 1004] [ 1005] 。一方でイギリスでは日本食 が一定の人気と定着を見せており[ 1006] 、大規模イベントが開催されるなど日本のポップカルチャー も受容されている。2019年 には大英博物館 で日本の「マンガ展」が開催された[ 1007] 。
ウクライナ
サンマリノ
ジョージア
スイス
バチカン
ロシア連邦
ロシア : 日露関係 は、断続的に関係が深まる時期をはさみつつも対立の時期が長い。これはロシアが伝統的に南下政策 を取り、太平洋への出口を求めたため、通り道の日本との間に地政学的な対立構造があるからである。
満州・朝鮮半島の支配権をめぐって1904年 (明治37年)に始まった日露戦争 や、1917年(大正6年)に起こったロシア革命に日本などの諸国が干渉して起こしたシベリア出兵 、終戦直前にソ連軍が日ソ中立条約 を一方的に破棄して日本支配地域に侵攻したソ連対日参戦 などが起こってきた。
日本のポツダム宣言 受諾による終戦後も南樺太と千島列島への侵攻を続け併合し(北方領土問題 )、日本人を捕虜として連行してシベリア抑留 するなどの行為が日本の人々の反感を生んだ。1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言 で一応国交が回復した後も、冷戦の中で緊張関係が続いてきた。
1986年 (昭和61年)以降に関係の改善が進み、現在の両国の間では、経済的な交流も盛んだが、領土問題やそれに起因する漁民銃撃・拿捕事件、資源問題(サハリン2 を参照)なども生じており、その関係は全く円滑ではなく、多くの日本人はロシア連邦との関係はかなり悪いものだと感じている。
そして「日本人にとって第二次世界大戦の終盤に日ソ中立条約 を無視してソビエト連邦に宣戦布告 された事実と戦後のシベリア抑留 の事実は忘れがたいものである」との主張が抑留被害者、愛国者の立場にある人からなされることが多い。
北方領土問題
北方領土問題 。歯舞群島 、色丹島 、国後島 、択捉島 。
ソビエト連邦 が占領した北方領土 をめぐる領土問題 から、良好な日ソ関係の構築は進展しなかったが、領土問題においては、平和条約 の締結によって解決されることになっている。
第二次世界大戦 の終結が決定的となる日本によるポツダム宣言 の受諾(1945年 (昭和20年)8月14日)後、1945年 (昭和20年)8月28日から9月5日にかけ、大戦前から日本が領有していた千島列島 (ロシア名:クリル諸島)、南樺太(サハリン) にソ連軍が侵攻し占領、以後、ソ連を承継したロシア連邦 が現在に至るまで実効支配している。
ロシア(旧ソ連)は戦争で獲得した領土と主張する一方、日本は北方地域(歯舞群島 ・色丹島 ・国後島 ・択捉島 )をその固有の領土として返還を求めている。
ロシアは歯舞群島・色丹島について日ソ共同宣言 を根拠に日本への将来の返還を示唆するのに対し、日本は択捉島・国後島を含む4島の一括返還を求めこれを拒否する。
日本は択捉島と得撫島 との間での国境の確定にロシアが同意すれば、引き続きロシアによる統治を認める旨を提示したがロシアは拒否した。2007年 (平成19年)にロシアが「面積二分割」案を提示したが、なお解決の目処が立たない。
日本共産党 は千島列島の全域を日本の領土と主張する(ソ連による千島の占領がカイロ宣言 等で示された連合国の「領土不拡大」原則に反し、違法であるとの理由から)。
一部では南樺太ないし樺太(全域)の返還も主張される。この北方領土問題について日本はアメリカから支持されており、北方領土における日本の主権を認められている。
アフリカ
この節の
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(2009年1月 )
アフリカ 諸国は日本とは歴史的に関係が薄く、観光地としてもエジプト などの一部を除いて大きな人気があるわけでもない。主に日本からアフリカ諸国への開発援助と、アフリカ諸国からの地下資源や農水産物の輸入と日本からの工業製品の輸出という貿易関係に終始している。
1993年 (平成5年)からODA などの経済支援を含む経済的・人的な交流を深める目的で日本、国際連合 、アフリカのためのグローバル連合 、世界銀行 が共催し、アフリカ開発会議 (TICAD:Tokyo International Conference on African Development)を開始した。
近年、アフリカ諸国に大使館を増やすなど関係強化に乗り出している。その背景として、中国が現地に在住の華僑などを活用してアフリカ諸国との関係強化を行っている情況がある。これは、資源確保や国連での票固めなどが目的であると指摘されている。ほか、サッカー などスポーツの分野においてはアフリカ諸国を日本に招いた試合が行われたり、日本のテレビ番組でもアフリカ出身の外国人タレント が活躍するなど良好な関係を築いている。
エジプト
エチオピア
ジブチ
ジブチ : 2011年 より、戦後初の海外基地であると同時に日本史上初となるアフリカを拠点とする海外基地をジブチに構えている。
南アフリカ
南アフリカ共和国 : アパルトヘイト で世界から孤立していた時代にも、多くの日本企業が進出して比較的密接な関係を築いていた。このため、国際社会から厳しい非難を浴びていた時期に日本人は同国から「名誉白人 」(国連から非難決議を受けた)の扱いを受けていた。
国際機関
この節の
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(2009年9月 )
日本は以下の国際機関 に加盟している。
安全保障
物品役務相互提供協定(ACSA)
日本は自衛隊と他国軍の間で食料、燃料、弾薬、輸送、医療等の物品や役務の相互提供を可能とする物品役務相互提供協定 (ACSA, Acquisition and Cross Servicing Agreement)の締結を推進している[ 1008] 。
経済連携協定(EPA/FTA)
日本は順次、各国と経済連携協定 を締結をしている。具体的な協定内容は各協定の項目に譲り、以下では単に協定名を列挙する。
多国間での協定
二国間での協定
交渉中のEPA/FTA
交渉延期中または中断中の協定(EPAを含む)
各国との国交樹立年
アジア
中東
ヨーロッパ
北アメリカ
オセアニア
過去に国交があった国
脚注
注釈
出典
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参考文献
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関連項目
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