横河電機
横河電機株式会社(よこがわでんき、英: Yokogawa Electric Corporation)は、東京都武蔵野市に本社を置く、工業計器・プロセス制御システム専業の大手電機メーカー。横河グループの事業持株会社としての機能も有する。横河建築設計事務所や横河ブリッジホールディングスは兄弟会社にあたる。本社のある武蔵野市には、横河電機をはじめグループ会社の本社が集中している。 この分野では日本国内最大手、世界6大メーカー(グローバル・ビッグ6)の一つ。売上の70%が海外事業で、かつ従業員の70%が外国籍というグローバル企業である。芙蓉グループに参加している。日経平均株価およびJPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ[3][4]。 2015年8月よりコーポレートスローガンとして、Co-innovating tomorrowを掲げている[5]。 概要1983年4月1日、日本を代表する工業計器・プロセス制御システムの大手専業メーカーの横河電機製作所(YEW)と北辰電機製作所(Hokushin)が経営統合し、横河北辰電機株式会社が発足。1986年にCIを実施し、横河電機株式会社(YOKOGAWA)と社名変更し、現在に至っている。すなわち、現在の横河電機は、日本の工業計器業界のパイオニアである旧・横河と旧・北辰両社の伝統を受け継いでいる。横河電機の技術や品質は世界のトップレベルで、プロセス制御分野では世界の巨大企業相手に世界市場で善戦し、12%のシェアを握っている。 横河電機製作所1915年(大正4年)に電気計器研究所として創業。工業用計測器の開発・製造を開始し、1920年(大正9年)に株式会社横河電機製作所(YEW)として設立された。創業者の横河民輔博士は日本を代表する建築家として知られ、日本工業倶楽部や日本橋三越等の著名な建築物を設計した人物で、横河工務所(現・横河建築設計事務所)や横河橋梁製作所(現・横河ブリッジ)等を創業した実業家でもあった。横河電機製作所は当時は輸入に依存していた計測器の国産化に取り組むために設立された企業であった。 第二次世界大戦中は軍需により急成長し、終戦時は1万人の従業員を擁していたが、戦後は300人の従業員から会社を再建。高度経済成長の中、計測器メーカーから工業計器・プロセス制御機器メーカーに転換して躍進した。ヒューレット・パッカードとの合弁による横河ヒューレット・パッカード株式会社(現:日本ヒューレット・パッカード、アジレントテクノロジー)の設立、ゼネラル・エレクトリックとの合弁によるGE横河メディカルシステム(現・GEヘルスケア・ジャパン)の設立など、積極的な経営戦略で業界首位を不動のものにした。1982年の時点では従業員約3,000人を擁していた。 北辰電機製作所逓信省を経て東京帝国大学教授長岡半太郎の助手をつとめた清水荘平が、1918年(大正7年)に北辰電機製作所(Hokushin)を創業。1934年に株式会社化。戦前は計測器メーカーとしては国内最大手であった。航空・航海計器に強く、第二次世界大戦中は軍需によって急拡大し、終戦時の従業員数は2万人に達した。 北辰は軍需への依存度が高かった上、主力工場が戦災で壊滅し、戦後の成長の足かせとなった。戦後は従業員数450名で再建を図り、いち早くコンピュータの分野に進出し、工業計器・プロセス制御機器メーカーに転換した。とくに通商産業省が主導した国家的プロジェクトである国産コンピュータの開発に参画した。住友グループとの関係が深く、1982年の時点では業界3位で従業員約2,800名を擁していた。 横河北辰電機発足1970年代後半に入ると、横河も北辰も専業メーカーとして規模を拡大し、国内の大手総合電気メーカーや、海外進出による外国企業との競争に勝ち抜く必要に迫られていた。この状況を共有した横河電機製作所社長の横河正三と、北辰電機製作所社長の清水正博は、両社の統合を決断。かくして1983年、横河電機製作所と北辰電機製作所が合併し、新会社として横河北辰電機株式会社が発足した。従業員数は6,000名を超え、売上高も1,000億円を突破し、工業計器・プロセス制御システム市場で圧倒的なシェアを獲得した。この合併によりアメリカ合衆国のハネウェルに次ぐ世界第2位の工業計器・プロセス制御システムメーカーに躍進した。 横河電機へ横河北辰電機は、1986年にCIを実施し、旧・横河のブランドマーク「YEW」とともに北辰の名称も消え、現社名横河電機株式会社(YOKOGAWA)へ商号変更した。 横河と北辰の合併後、バブル景気の時代までは好景気に支えられて業績やシェアを拡大し、合併の効果が表れてグループは拡大路線へと向かった。紙・パルプのプラント制御ではシェアは80%に達し市場をほぼ独占した。また合併により倍増した従業員の活用を図るため、横河レンタ・リースをはじめ多数の子会社を設立し、経営多角化を推し進めた。 ところが、バブル崩壊後の縮小経済のもとでは業績が伸び悩み、経営改革を迫られた。横河が苦心して育てた有力な傘下企業の横河ヒューレット・パッカード(現・日本ヒューレット・パッカード)は、ヒューレット・パッカード米国本社の強気の交渉に負けて持分を譲渡せざるを得なくなり、さらに同じくグループの優等生であったGE横河メディカルシステム(現・GEヘルスケア・ジャパン)の実質的な経営権を失った。そのほか、アジレント・テクノロジー(横河アナリティカルシステムズ)、ジョンソンコントロールズ(横河ジョンソンコントロールズ)、トヨタ自動車(トヨタマックス)、早稲田大学(早稲田大学ラーニングスクエア)などと相次いで合弁を解消し、事業構造の再構築を図った。 2000年代後半以降は、光通信分野をはじめとする新規投資の失敗や、半導体関連事業の採算の悪化などがたたり、2008年度・2009年度・2010年度の当期利益が連続で赤字になるなど、経営環境の変化に見舞われ、世界第2位から6位に転落した。 経営改革2010年代も構造改革が進められ、子会社の売却や整理を行ってグループの事業領域の絞り込みを図った。また2013年には、営業・保守サービス部門を分社化して横河ソリューションサービス株式会社を発足させた。 内田勲社長が会長職に退き、海堀周造が社長に就任すると、横河電機は抜本的な改革に踏み切った。海堀の後継の西島剛志社長の2代にわたり、事業領域を制御システム事業中心に絞り込み、横河の伝統的な事業であっても規模縮小傾向にあったり利益が薄い事業は次々に売却するなどして、事業の整理を進めていった。 社会・地域貢献特筆すべきこととして、グループを挙げて障害者雇用に積極的に取り組み、さらには知的障害者雇用のための特例子会社である横河ファウンドリーを設立。民間企業による知的障害者の人材活用モデル企業として位置づけられている。 また地域との協調・共存共栄を目指した活動を重視しており、横河電機の本社や全国各地の事業所のグラウンドで毎年開催される「横河まつり」は、グループ従業員とその家族だけでなく近隣住民も参加するイベントとなっており、横河電機の社長以下役員、グループ会社の社長・役員が模擬店を開いて、自ら来場者のホスト役を演じることが恒例となっている。 沿革
歴代経営陣
横河グループ→詳細は「横河グループ」を参照
横河民輔が直接設立した横河グループの源流の横河建築設計・横河ブリッジ・横河電機・横河商事・横河東亜工業は横河五社と呼ばれ持株会社である横河商事の元に運営されていた。戦時中、軍需の受注増大に伴い各社が急拡大する過程で、資本的関係が薄れ、戦後は自主独立の経営を行った。 近年ではもっとも規模が大きい横河電機が、横河商事、横河東亜工業、横河ブリッジに資本参加。横河商事は横河電機の系列会社となる。横河ブリッジについては、筆頭株主として監査役1名(横河電機元副社長)を派遣し、関係が再び強まりつつある。横河建築設計については、横河電機が本社ビル建設の際に設計を委託しており、関係を有する。現在、創業家である横河家からは、中興の祖といわれる横河正三名誉会長以来、横河電機の経営者は出ていない。ただ、関係会社に社長1名、監査役1名に横河家出身者がいる。 国内販売は代理店、特約店販売を主にしている。 代理店[23]
関連会社
スポーツ
関連する人物不祥事脚注
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