山田 太一(やまだ たいち、1934年(昭和9年)6月6日[1] - 2023年(令和5年)11月29日)は、日本の脚本家・小説家。本名:石坂 太一[1](いしざか たいち)。東京市浅草区出身[2]。
松竹で木下惠介の助監督を務めた後、フリーランスとなり、テレビドラマの脚本家に転身。社会的弱者を主題としたりテレビドラマのタブーに挑戦するなど、数々の話題作を次々と生み出し、多くの賞を受けた。小説家としても地位を確立。映画や舞台も手掛けている。
来歴
生い立ち・学生時代
東京市浅草区生まれ。
父親は愛知県[3]、母親は栃木県真岡市出身[3][4]。両親は浅草六区で大衆食堂を経営していた[2][4]。小学校3年のとき、強制疎開で神奈川県足柄下郡湯河原町に家族で転居する[4]。疎開中に母親が過労によって亡くなる。
神奈川県立小田原高等学校を経て、1958年(昭和33年)に早稲田大学教育学部国語国文学科を卒業[2]。早稲田大学の同窓に劇作家の寺山修司がいた[2]。在学中、寺山とは深い親交を結び、寺山がネフローゼで休学・入院すると山田は頻繁に見舞って話し合った[5]。寺山の母から見舞いを控えるよう叱責された後は手紙をやり取りした[2]。後に寺山脚本の映画『夕陽に赤い俺の顔』『わが恋の旅路』で山田は助監督を務めている。寺山の死去から32年が経過した2015年(平成27年)に、両者が学生時代に交わした書簡や寺山の日記を収めた『寺山修司からの手紙』が、山田の編著により岩波書店より刊行されている[5]。
教師になって休みの間に小説を書きたいと思っていたが、就職難で教師の口がなかった。しかも、東京都の教員採用試験の日付を間違えてしまったと、後年になって本人が告白している。大学の就職課で松竹大船が助監督を募集していると聞かされ、松竹を受験する[2] [6]。
松竹入社から脚本家へ
松竹に入社後、木下惠介に師事[2]。助監督時代には、木下自ら再編集を行ったワイド(リバイバル)版『二十四の瞳』の予告編制作も手がけた[7]。木下には現在も敬愛の念を抱いているという[8]。1960年代前半から、木下恵介の映画をテレビドラマに脚色する仕事を始めた[2]。 1965年(昭和40年)に退社して、フリーランスの脚本家になる。
木下に「連続(ドラマ)を書いてみろ。」と言われ、1968年(昭和43年)に木下恵介アワー枠の『3人家族』を執筆。「プロになろう。絶対当てよう」という意気込みで臨み、実際に高視聴率を上げる。翌1969年(昭和44年)の『パンとあこがれ』に携わり、初めて「テレビは面白い!」と思ったという[9]。
1970年代
木下恵介に「書きたいように書いていいよ。」と言われ、1973年(昭和48年)に発表した『それぞれの秋』[9] で、平凡な家庭が崩壊の危機に直面するさまをシリアスに描き、芸術選奨新人賞受賞。同年には、ヒッピー風の若者(萩原健一)と頑固な老人(西村晃)の確執と交流を描いた『河を渡ったあの夏の日々』(NHK)を発表した[10]。
1976年(昭和51年)、NHKが脚本家の名前を冠した「脚本家シリーズ」を開始、その先発に選ばれる。「脚本家の名前が最初に出るということは後々みんなに影響すると思ってね(中略)緊張してやった仕事」と回想している[6]。“山田太一シリーズ”として発表された『男たちの旅路』は人気を博し、1982年(昭和57年)まで断続的に継続した。なかでも 1979年(昭和54年)に放送された第3部のエピソード、「シルバー・シート」は第32回芸術祭ドラマ部門大賞を受賞した。
「東京新聞」に連載した小説を自身の脚色で1977年(昭和52年)にテレビ化した『岸辺のアルバム』が、高い評価を受ける。「戦後の日本社会が一つの家族にどんな影響を与えてきただろうか、ということをプラスとマイナス両方込めて書いてみよう」[9] という意欲を持って執筆。中流家庭の崩壊をリアルに描き、それまでの和やかなホームドラマとは対照的な「辛口ホームドラマ」と呼ばれ、放送史に残る名作とされた[11]。
1980年代
1980年(昭和55年)に『獅子の時代』を執筆。大河ドラマとしては初めてのオリジナル作品となった。作品は好評を博したものの、「二度と大河はやらない(中略)僕には向いてない」という思いを抱き[9]、以後の大河ドラマには参加していない。
1981年(昭和56年)の『想い出づくり。』は、24歳の女性たちを主軸にした群像ドラマで「今考えると嘘みたいだけれども、主人公が複数いるドラマがほとんどなかったんです(中略)それで、どの人が主人公かわからないような作品を書いてみようという野心があった」という。裏番組が倉本聰脚本『北の国から』で、二大ライターの対決としても話題になったが、自身は「そういう形で競争させられるのは、情けない思い」と述懐している[12]。
1983年(昭和58年)の『早春スケッチブック』は「小市民を非常に否定する存在を出して、その否定に(小市民は)どれくらい立ち向かうことが出来るか」[9] を描くという挑戦的な意図で臨んだ。視聴率は低迷したが、視聴者からの手紙や電話などで大きな反響を呼んだ。同年にスタートした 『ふぞろいの林檎たち』は、大学生の青春群像をリアルに描き、1997年(平成9年)まで継続する人気シリーズとなる。
1984年(昭和59年)にはラフカディオ・ハーンを主人公にした『日本の面影』により第2回向田邦子賞を受賞。同作品は1993年(平成5年)に自身の脚色で舞台化されて再演を重ね、2001年(平成13年)にはダブリンとロンドンでも上演されている。
新潮社の人から「テレビ化することは一切考えないで、純粋に小説というものを書いてみないか」と言われて『飛ぶ夢をしばらく見ない』(1985年)を執筆。その後『異人たちとの夏』(1987年)、『遠くの声を捜して』(1989年)と執筆し、ファンタジー三部作と言われる[13]。
1986年(昭和61年)の『深夜にようこそ』は、千葉真一のインタビューを観て、侍だけでない一面を持っていると抱き、執筆した作品である[14]。千葉の主戦場であるアクション作品と対照的な同作は[15]、その演技・ストーリーが、名作ぞろいの山田ドラマの中でもトップクラスの傑作と評されている[16]。
1988年(昭和63年)、小説『異人たちとの夏』で山本周五郎賞を受賞。
1990年代以降
1990年代から2000年代には「連続ものをやめようという気持になってきた。連続の企画を実現させていくプロセスが、自分とちょっと合わないなという気がして。」[9] というコメントを出している。
2009年(平成21年)の『ありふれた奇跡』にて12年ぶりに民放の連続ドラマに復帰した。
2017年(平成29年)1月に脳出血を患い、執筆が難しくなっていることを「週刊ポスト」(2017年9月1日号)のインタビューで明らかにした[17]。
《もう脚本家として原稿が書ける状態ではありませんが、後悔はしていません。これが僕の限界なんです》と告白し、「事実上の断筆宣言」と報じられたことに対して、リハビリテーション中の山田は「朝日新聞」の取材に対して「あと1本くらい書く余裕はあるかも分からない」と、断筆宣言を否定している[18]。
晩年 - 死去
2019年(平成31年)春頃から、マスコミ関係者と連絡が取れなくなり、「週刊女性」に「山田太一が音信不通に…老人ホームで孤独な生活」と報じられる[19][20]。記事では川崎市内の老人ホームに入居して20平米ほどの部屋で暮らしているというテレビ局関係者の情報が紹介され「病気になってしまってから、以前のように自由がきかなくなってしまったのがショックだったんじゃないですかね。『脚本家の僕を知っている人たちとは、もう会いたくない。』と近親者に話しているそうです。」という該当テレビ関係者のコメントが載った。
該当の老人ホームを通じ、山田にインタビューを申し込んだが「個人情報のため、こちらにその方が入居しているのかどうかは、お答えすることができません」との返答だったため、裏付けは得られなかったとしている[20]。同じ記事では山田の次女による「今は(老人ホームとは)別の場所にいます。私の家とか、姉の家とかを行ったり来たりです。」、「今は仕事をしたいという感じじゃないんです。他のことをやったりという感じです。」というコメントが紹介されている[20]。
2020年(令和2年)、「ラジオ深夜便」(NHK)[注 1]に出演し(収録はそれよりも前)「書きたいテーマ」について「本当に自分本位に考えれば、死を待っているわけですから、死ぬということがどういうことかということを、ワッと書けたら素晴らしいと思いますけどね。」とコメントした[20]。
2023年(令和5年)11月29日、老衰のため神奈川県川崎市の施設で死去[21]。89歳没。訃報は12月1日に家族より公表された[22][23]。
作風
若者から老人まで、さまざまな世代の人物を登場させることが多い。その点は「前世代があって、良くも悪くも次世代があるわけで、まったく切り離されて、ある世代が存在してるわけでもないから。」と話している[12]。
『沿線地図』などで笠智衆を脇役に起用していたが「笠智衆さんを主役に仕事をしたいという思い」があったので、『ながらえば』を皮切りに『今朝の秋』など、笠主演のドラマを4本執筆。「他の人も笠さんを獲得したがっている時に、僕が掴まえてしまうんだから(中略)いいものにしなきゃという思いは非常に強かった」[9] と回想する。
自らが脚本を担当した1972年(昭和47年)のNHK連続テレビ小説『藍より青く』では、山田自身が作詞し、湯浅譲二が作曲、本田路津子が歌唱した『耳をすましてごらん』を製作。『ふぞろいの林檎たち』シリーズでは、1978年(昭和53年)デビューのサザンオールスターズを使用した。
例えば「作り手の顔がちゃんと見える作品」が、良い作品だと考えているという[24]。
周辺人物
『男たちの旅路』シリーズや『獅子の時代』『シャツの店』『秋の一族』などで組んだ近藤晋プロデューサーを「名プロデューサー」と称している[25]。
演出家では『冬構え』『シャツの店』『友だち』『今朝の秋』などを撮った深町幸男を「有能な演出家」と記している。『高原へいらっしゃい』『深夜にようこそ』『浅草・花岡写真館』などを演出した高橋一郎を同じく「有能」と評価している[26]。また『ふぞろいの林檎たち』シリーズや『想い出づくり。』『春の惑星』などを撮った井下靖央を、テレビ界で「五本の指に入る才能」と買っており、『ふぞろいの林檎たちIV』ではメインの演出家として井下を指名した[27]。
『岸辺のアルバム』『想い出づくり。』など複数の作品でディレクターの鴨下信一と組んだが、鴨下がメインの演出を務めた『ふぞろいの林檎たちIII』に関しては「一回目の仕上りを放送前にビデオで観た私は、ほとんど絶望感のようなものを抱いた(中略)多くの人が放送を見ないで、私の脚本だけを読んで下さることを願った。」と激昂した発言をしている[28]。
『さくらの唄』ではディレクター・久世光彦と組んだが、久世や樹木希林たちが現場で山田の脚本にないアドリブをするので「抗議をして『アドリブはいっさい止めてくれ。』」と要求した。すると「(久世は)すぐ了解してくれて、それでもいい演出をなさったんで敬服しました。」という[9]。その後は、久世とコンビを組んで作品制作にあたることはなかったが、久世演出の『寺内貫太郎一家』を高く評価している[8]。久世も、山田の小説作品『冬の蜃気楼』を好意的に評しており[29]、両者の関係は良好だったようである。2006年(平成18年)に久世が逝去した際には、追悼のコメントを出した。
自身が師事した木下惠介・小津安二郎・黒澤明らの映画監督を敬愛している。脚本家では倉本聰・向田邦子・田向正健に「ほぼ同世代の同業者として、いろいろな意味で刺激を受けました。」と語る[30]。倉本、向田とは「シナリオライター御三家」とも呼ばれた[31]。
地人会の演出家・木村光一の誘いで[8]、1983年(昭和58年)の『ラヴ』を皮切りに、劇作にも手を染める。2007年の(平成19年)地人会の活動停止まで、13本の舞台を木村演出で発表した。
家族
長女はテレビドラマ演出家の宮本理江子。長男(第3子)は撮影監督の石坂拓郎。ほかに次女がいる[32]。
作品
テレビドラマ
映画
舞台
著書
シナリオ・戯曲集
- 『男たちの旅路』(1977年、日本放送出版協会)
- 『テレビドラマ・シナリオ・シリーズ、幸福駅周辺・上野駅周辺』(1978年、ドラマ館)
- 『あめりか物語』(1979年、日本放送出版協会)
- 『獅子の時代』全5巻(1980年、教育史料出版会)
- 『想い出づくり』(1982年、大和書房)
- 『季節が変わる日』(1982年、大和書房)
- 『それぞれの秋』(1982年、大和書房)
- 『早春スケッチブック』(1983年、大和書房 → 新潮文庫)
- 『ふぞろいの林檎たち』(1983年、大和書房 → 新潮文庫)
- 『夕暮れて』(1983年、大和書房)
- 『ふぞろいの林檎たちII』(1985年、大和書房 → 新潮文庫)
- 『緑の夢を見ませんか?』(1983年、大和書房)
- 『輝きたいの』(1984年、大和書房)
- 『真夜中の匂い』(1984年、大和書房)
- 『日本の面影』(1984年、日本放送出版協会 → 岩波現代文庫)
- 『山田太一作品集』全19巻(1985 - 1989年、大和書房)
- 『ラヴ』(1986年、中央公論社)
- 『大人になるまでガマンする』(1986年、大和書房)
- 『シャツの店』(1986年、大和書房)
- 『砂の上のダンス』(1990年、新潮社)
- 『捨てた夢プレイバック 「ふぞろいの林檎たち」より』(1991年、飛鳥新社)
- 『ふぞろいの林檎たちIII』(1991年、マガジンハウス)
- 『今朝の秋』(1994年、新潮文庫)
- 『東芝日曜劇場名作集 東京の秋』(1994年、ラインブックス)
- 『ふぞろいの林檎たちIV』(1997年、マガジンハウス)
- 『二人の長い影・林の中のナポリ』(2008年、新日本出版社)
- 『読んでいない絵本』(2011年、小学館→ 小学館文庫)短編+戯曲
- 『ナイフの行方』(2015年、角川書店)
- 『山田太一セレクション』(2016 - 2017年、里山社)
- 『ふぞろいの林檎たちⅤ/男たちの旅路〈オートバイ〉』(2023年、国書刊行会)
- 『時は立ちどまらない 東日本大震災三部作』(2024年、大和書房)
- 『終りに見た街 男たちの旅路スペシャル〈戦場は遙かになりて〉 山田太一戦争シナリオ集』(2024年、国書刊行会)
小説
- 『藍より青く』(1972 - 1973年、中央公論社→読売新聞社)
- 『沿線地図』(1979年、作品社→角川文庫)
- 『岸辺のアルバム』(1980年 、東京新聞出版局→ 角川文庫→光文社文庫→小学館)
- 『終りに見た街』(1981年、中央公論社→中公文庫)
- 『飛ぶ夢をしばらく見ない』(1985年、新潮社→新潮文庫)
- 『飛ぶ夢をしばらく見ない』(2013年、小学館文庫)
- 『異人たちとの夏』(1987年、新潮社→新潮文庫)
- 『遠くの声を捜して』(1989年、新潮社→新潮文庫)
- 『丘の上の向日葵』(1989年、朝日新聞社→新潮文庫)
- 『君を見上げて』(1990年、新潮社→新潮文庫)
- 『冬の蜃気楼』(1992年、新潮社→新潮文庫)
- 『見えない暗闇』(1995年、朝日新聞社→朝日文庫)
- 『恋の姿勢で』(1995年、新潮社→新潮文庫)
- 『見なれた町に風が吹く』(1997年、中央公論社→中公文庫)
- 『彌太郎さんの話』(2002年、新潮社→新潮文庫)
- 『リリアン』(2006年、小学館)挿絵:黒井健
- 『空也上人がいた』(2011年、朝日新聞出版→朝日文庫)
エッセイ
- 『街への挨拶』(1974年、産業能率短期大学)
- 『昼下りの悪魔』(1978年、冬樹社)
- 『路上のボールペン』(1984年、冬樹社)
- 『いつもの雑踏 いつもの場所で』(1985年、冬樹社)
- 『いつもの雑踏 いつもの場所で』(1988年、新潮文庫)
- 『街で話した言葉』(1986年、ちくま文庫)
- 映像を見る目(光村図書 小学校国語「国語五上」)- 書き下ろし
- 『ふぞろいの林檎たちへ』(1987年、岩波ブックレット)
- 『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』(1995年、PHP研究所 → 新潮文庫 → PHP新書)
- 『逃げていく街』(1998年、マガジンハウス → 新潮文庫)
- 『誰かへの手紙のように』(2002年、マガジンハウス)
- 『月日の残像』(2013年、新潮社 → 新潮文庫)
- 『夕暮れの時間に』(2015年、河出書房新社→ 河出文庫)
- 山田太一エッセイ・コレクション(2015年、河出文庫)
編著・対談
- 『十二の世界を聞く』(1987年、潮出版社)
- 『これからの生き方、死に方』(1994年、講談社)
- 『生きるかなしみ』(1991年、筑摩書房 こころの本→ ちくま文庫)- 編著
- 『現代日本文化論10 夢と遊び』(1997年、岩波書店)共編:河合隼雄
- 『幸福になれない理由』(1998年、PHP研究所)対談:小浜逸郎
- 『何が終わり、何が始まっているのか』(1998年、PHPソフトウェア・グループ)対談:福田和也
- 『浅草 土地の記憶』(2000年、岩波現代文庫)- 編著
- 『山田太一、小此木啓吾、「家族」を語る。』(2000年、PHP研究所) 対談
- 『家族はどこへいくのか』(2000年、岩波書店) 対談:河合隼雄、谷川俊太郎
- 『寺山修司からの手紙』(2015年、岩波書店) 編・回想
- 『光と影を映す だからドラマはおもしろい』(2016年、PHP研究所)インタビュー編著
主な作詞
ムック
受賞歴
個人賞
1974年
1980年
1983年
1984年
1985年
- 第33回菊池寛賞(家庭や職場等のごく平凡な日常を、抜群のドラマに仕上げて、人間愛を訴えつづけている)
1988年
1989年
1991年
1992年
1996年
1997年
2008年
2013年
2014年
2015年
作品賞
出演
テレビ
ラジオ
関連項目
脚注
注釈
- ^ 2019年10月26日放送。
- ^ '74第29回文化庁芸術祭大賞(文部大臣賞)受賞作品
- ^ ドキュメンタリードラマ初挑戦。
- ^ 1976年版のリメイク。
- ^ 1982年版のセルフリメイク。
- ^ 木下惠介との共同執筆。
- ^ 井上ひさし、山田洋次、朝間義隆との共同執筆。
- ^ a b c d 自作テレビドラマの舞台化。
出典
外部リンク
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