武田鉄矢
武田 鉄矢(たけだ てつや、1949年〈昭和24年〉4月11日[2][3] - )は、日本の俳優、歌手、タレント、司会者、作詞家。フォークグループ・海援隊のボーカル・リーダー。 代表曲に「母に捧げるバラード」、「あんたが大将」、「人として」、「贈る言葉」、「思えば遠くへ来たもんだ」[注釈 1](いずれも海援隊)などがある。 来歴・人物1949年(昭和24年)、福岡県福岡市博多区生まれ。5人兄弟姉妹の末っ子で、12歳上の兄と3人の姉がいる。母・武田イクと父・嘉元は熊本県阿蘇郡南小国町中原[注釈 2]字樋ノ口の出身。両親は博多で結婚し、父親が天涯孤独となっていた母親の家に婿養子に入った[5]。母方は若狭武田氏の末裔と伝わる[6]。家紋は丸に割菱[7]。福岡市中央区大濠に在する福岡大学附属大濠高等学校を受験するも不合格であったものの、福岡県立筑紫中央高等学校に合格、高校時代は生徒会長にも選出された。卒業後は坂本龍馬の研究を志し、当時一期校だった高知大学文理学部(現:人文社会科学部)を現役、浪人時と2年に渡り挑戦した。また坂本の墓所の近隣に位置していた立命館大学も受験したが不合格。最終的に、二期校で合格した福岡教育大学教育学部障害児教育教員養成課程に入学。しかし、7年在学するも中退。芸能界で失敗しても大学に戻れるよう母・イクが休学手続きをして学費を払い続けていたという[8]。また、母は『金八先生』シリーズが始まったことを誰よりも喜んでくれたという[9]。 1972年(昭和47年)10月25日に、千葉和臣・中牟田俊男らと海援隊でデビュー。当初は全く売れなかったが、武田が母・イクに向けた詫び状を歌にした「母に捧げるバラード」(1973年(昭和48年))がヒットし、翌年の第25回NHK紅白歌合戦(NHK総合・ラジオ第1)に出場。しかしその翌年には、夫婦揃って大晦日の夜に皿洗いのバイトをしなければならないほど人気が低迷したと言い、テレビから流れる第26回NHK紅白歌合戦(NHK総合・ラジオ第1)を横目で見て「俺はこんな所で何をやっているんだろう」と落ち込んでいたと後年語っている。 その後、映画『幸福の黄色いハンカチ』(1977年〈昭和52年〉)でのさえない青年役が高い評価を得て、俳優としての新境地を開拓。海援隊としても再び注目され、ドラマ『3年B組金八先生』(1979年〈昭和54年〉、TBS)のヒットとともに主題歌の「贈る言葉」も大ヒットした。1982年(昭和57年)12月の海援隊解散後は、ソロ歌手・俳優・作家として活動。歌手活動としては、「男と女のはしご酒」(芦川よしみとのデュエット、1987年〈昭和62年〉)、「声援」(『3年B組金八先生』第3シリーズ主題歌、1988年〈昭和63年〉、TBS)などのヒット曲がある。海援隊は1993年(平成5年)4月10日の「ドリームライブ in 福岡ドーム」のために1日だけ再結成され、翌1994年(平成6年)に本格的にグループとしての活動を再開し、現在に至る。 また、漫画原作者として『お〜い!竜馬』(画:小山ゆう。テレビアニメ版では武田が主題歌を担当)と『プロゴルファー織部金次郎』(画:高井研一郎。武田主演で実写映画化)の2作を手掛けているほか、『刑事物語』の映画版の原作と脚本・主演、ならびにテレビドラマ用の『幕末青春グラフィティ 坂本竜馬』、『幕末青春グラフィティ 福沢諭吉』映画の『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』も脚本、主演した(これらは脚本家としては片山蒼=かたやま あおい名義)。 2012年10月、連続テレビ小説『純と愛』(NHK総合)でヒロインの父親役として初出演を果たした。 2019年8月28日、東洋水産『マルちゃん赤いきつねうどん』のCMキャラクターを1978年の発売当初から務めていることから、同商品が「同じ俳優を起用したTVCMを、最も長い間放映し続けている商品」として、ギネス世界記録に認定された。 長く活躍していることもあり、知名度が高い。2020年7月22日に放送された『水曜日のダウンタウン』(TBS)の「古今東西 日本人知名度ランキング」[注釈 3]では、第18位(87.8%)にランクインした。歌手としては、6位和田アキ子・9位北島三郎に次ぐ順位である。 永井真理子は父方の11親等離れた親戚であることが2021年9月20日放送の『はじめまして!一番遠い親戚さん』で明らかとなった[10]。 なお、福岡教育大学は中退になったものの、同大学は武田の『金八先生』シリーズでの長年の活動を評価し、2008年(平成20年)に、名誉学士号(6月に制定。第一号)を授与することを決め、武田本人も了承した。9月12日に、授与式と学生とのトークイベントが行われた。名誉学士号授与の条件として、教員の卵である学生達に人生で学んだことを話す機会を随時設けることを求められ、本人も快諾した[11]。2010年(平成22年)5月12日には福岡教育大学の特命教授[注釈 4]に就任し、『風の又三郎』をテーマに90分の「賢治の小説は童話ではなくミステリーだ」と論じる講義を行なった[12]。 エピソード
音楽面「母に捧げるバラード」(1973年(昭和48年))の「今も聞こえるあのお袋の声」の部分のメロディは、丸山明宏の「ヨイトマケの唄」の「今も聞こえるヨイトマケの唄」を模倣したと、2007年(平成19年)放送の『オーラの泉』で、美輪本人に告白している[出典無効]。 海援隊の楽曲『節子への手紙』は、武田の妻・節子へ届いた、彼女の母親からの手紙にモチーフを得たもの。 BS-i連続テレビドラマ『恋する日曜日』セカンドシリーズで『僕の部屋から』というドラマが制作された際に、主題歌「僕の部屋から」の作詞を担当した。 別項にあるように坂本龍馬を敬愛しているため、武田は龍馬が亡くなった年齢(33歳)と同じになった年(1982年)に海援隊を解散(後に再結成)した。ただし、龍馬の「33歳」が数え年であったのに対し、武田の「33歳」は満年齢である(龍馬は満31歳だった)。 映画ドラえもんの主題歌映画『ドラえもん』の第1作目から第17作目(第5作目を除く)のエンディングテーマ曲の作詞を務めた。第6作,11作,第13作,第15作[注釈 5],第16作目[注釈 6]は武田が歌っている。『ドラえもん のび太と銀河超特急』も海援隊が歌を担当しているがこの作品のみ千葉和臣、中牟田俊男が歌っている。西田敏行が歌唱した『ドラえもん のび太の日本誕生』の主題歌「時の旅人」は後にアルバム『昭和24年 〜いつか見た青い空〜』でセルフカバー。かねてより原作者の藤子・F・不二雄を尊敬していたが、藤子の逝去に伴って「藤子先生が亡くなった今、僕は『ドラえもん』の映画の作詞を引退します」と宣言し、同劇場版シリーズの楽曲参加を勇退した。その後、映画『ドラえもん』30周年を記念し、2010年(平成22年)の劇場版『ドラえもん のび太の人魚大海戦』で14年ぶりに挿入歌を手掛けた。 音楽担当となった当初、藤子スタジオに娘を連れて行ったことがあり、その時に娘が「ドラえもんはどこ?」と尋ねたところ、藤子は「今テレビ局の仕事に行っているんだよ」と答え、武田は彼のやさしさに深い感銘を受けた。 後に『藤子・F・不二雄大全集』で本人が明かしたところによると[要文献特定詳細情報]、藤子の存命中に一度だけ「映画ドラえもんのテーマ担当から武田を降板させる」という案が藤子に提案されたことがあったが、それを聞いた藤子は普段では考えられないほど激怒し[注釈 7]、「映画ドラえもんのテーマソングは武田でなければならない」という強い意志を感じ取ったスタッフは、以後二度とそういった話を藤子に持ちかけることは無くなったとのことである。それ以前に武田から「これ以上続けるとマンネリになるから」とテーマ担当の辞退を自ら申し出たときも藤子から強く引き留められたという[13]。 俳優業最も影響を受けた俳優には高倉健と渥美清を挙げている[要出典]。 俳優としては山田洋次監督の映画『幸福の黄色いハンカチ』(1977年 松竹)がスタートであり、デビュー作ながら日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞する演技を見せた。同監督作品の『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』(1978年(昭和53年) 松竹)にも出演。『刑事物語』シリーズ(1982年 - 1987年 東宝)の片山刑事役で、本格的な中国拳法、秘門派「蟷螂拳」や自ら考案した「ハンガーヌンチャクによるアクションシーン」を披露したり、個性派俳優としても活躍。ハンガーヌンチャクを使う殺陣上ではハンガーを振り回している最中、指から摩擦で煙が出てきた逸話をもつ。 一時期ジャッキー・チェンの髪型を真似たほどの自他共に認めるジャッキー・ファンで、『刑事物語3・潮騒の詩』ではジャッキーとの共演を熱望していたらしいが、ギャラの折り合いがつかず断念したという話がある。なお本作のオープニングのビルからの落下は『プロジェクトA』でジャッキーが時計台から落下する場面のパロディで、またラストのヒットマンとの野原での対決は『ヤングマスター 師弟出馬』のラストの死闘のパロディである。 テレビドラマへの進出について武田は「僕は吉田拓郎さんみたいな歌手になりたかった。でも、どうあがいてもなれなかった。それで仕方なく横に流れたんですね。それはテレビに出るということです。もう、今はなんてことないけど、当時はテレビに出ないというのがフォークシンガーのステータスでね。荒井由実、小椋佳、吉田拓郎、井上陽水..といった主流がテレビに出るのを拒否していたんです。そんな時に僕がテレビに出たもんだから風当たりが強くてね、当時は相当きつかった」などと話している[14]。1970年代は『あこがれ共同隊』(TBS、1975年)のようにニューミュージック系歌手がゲスト出演したり端役で出るというケースはあったが主役級で出演するようなことはなかった。1979年(昭和54年)6月に土曜ワイド劇場枠『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』(テレビ朝日)で犯人役を演じて話題を呼んだ泉谷しげると共に、同年の10月からスタートした『3年B組金八先生』(TBS)の主役に抜擢された武田は、俳優兼ニューミュージック系歌手の先駆けといえる[15]。やはり『2年B組仙八先生』(TBS、1981年)から、早めにテレビに進出したなぎら健壱は「テレビ出演拒否はもういいと、わりあい早い時期に気づいた武田や泉谷なんかが今も生き残っている」と話している[15]。 テレビドラマは、1979年(昭和54年)にスタートした『3年B組金八先生』(TBS)の坂本金八役を担当。2007年までシリーズ化された。大河ドラマ『徳川家康』(1983年(昭和58年))での豊臣秀吉役、『太平記』(1991年〈平成3年〉)での楠木正成役、『101回目のプロポーズ』(1991年 フジテレビ)でのさえない中年・星野達郎役などを演じている。 2006年(平成18年)、大河ドラマ『功名が辻』で主人公・山内一豊の古参の家来・五藤吉兵衛役のオファーがあったが、『竜馬がゆく』の敵役(土佐藩上士)の先祖を演じることに抵抗があり、当初は拒否したという。後にNHK側から「土佐に入る前に死んでしまう役ですから」と説得され、出演することとなった。共演の前田吟とともに、「これが最後の大河出演」と決めていたらしいが、『龍馬伝』で前言を撤回、龍馬の師の勝海舟を演じている[注釈 8]。NHKでのハイライト放送では勝役を「俳優業の集大成」、そして「先生冥利に尽きる」と語っている[出典無効]。 『金八先生』シリーズの各卒業式で生徒に贈る言葉は最初は3行の台本を20分掛けて喋るというが、直近のシリーズではスタッフがわざと台本の台詞部分を空白にして全て武田のオリジナルで語っている。 また、同作品中で「人と言う漢字は、人と人が互いに支え合っている」と説明する場面があるが、漢文学者で古代漢字学の第一人者である白川静の著書で「人と言う字は支えあっていない」と言う事を知り、深く衝撃を受けたという[16]。 2017年に『水戸黄門』で水戸黄門シリーズにおける6代目の水戸黄門を演じるが、その役どころを「いたわりを強要したり、老いのずるさもあって完璧なご老公じゃない。助さんも『この、くそじじい』と言うしね」と明かしている[17]。そしてこの役を引き受けたのは「これは老いの(老人の役をやっていくための)練習」であることを理由としている[18]。また武田は6代目に抜擢される20年前に東洋水産の『マルちゃん赤いきつねと緑のたぬき』のCMで既に水戸黄門を演じており、役柄も散々な目にあうという本編と変わらないキャラクターとなっている。 映画『ゴジラ』(1984年)でのセリフはほとんどが武田のアドリブである[19][20]。監督の橋本幸治は最初から台本より面白くしてくれるだろうと期待していたが、セリフが長くなってしまい編集に苦労したという[19]。武田自身について橋本は、映画の面白さを知っている映画青年であり、熱心で面白かったと述懐している[19]。しかし、ゴジラを侮辱するようなセリフに製作の田中友幸が憤り、そのほとんどがカットされた[20]。 脚本家片山蒼の名義で、映画、ドラマ、舞台の脚本を執筆している。
趣味、嗜好高校時代に読んだ司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響からバンド名に「海援隊」と名付けるほど、坂本龍馬を敬愛しており、龍馬役や龍馬に関連する人物の役をすることがある[注釈 9]。金八先生の名字の「坂本」は龍馬の姓に、金八の娘の「乙女」は龍馬の姉の名にちなんだものである。また、ソフトバンクモバイルのCMでは「坂本龍馬かぶれ」と揶揄される内容で出演。なお、「高校時代に最初に買った本はかなりボロボロになっていますが、大事に持っています。」とのこと[21]。さらには、『刑事物語』シリーズの『刑事物語 くろしおの詩』で、桂浜の坂本龍馬像に語りかけ、敬礼をするシーンもある。 谷村新司と並ぶニューミュージック界の二大ビニ本マニアとして知られ、『3年B組金八先生』第2シリーズの収録終了時に、卒業記念として男子生徒役の役者に自分のコレクションをプレゼントしていたが、直江喜一と沖田浩之は当時既に18歳だったため、「お前ら二人は自分で買え」とのことで武田のコレクションは貰えなかった[22]。 プロ野球は福岡ソフトバンクホークスのファンである。ちなみに、幼少時は西鉄ライオンズのファンだった。セ・リーグでは読売ジャイアンツが好きだという 。 語ることが好きである。NHK大河ドラマ『功名が辻』の収録では本番直前まで、共演者であり同じく話好きである前田吟とずっと話し続け、本番の際にセリフを忘れることがあった[23]。 1996年に日本テレビ系列でテレビドラマ『竜馬におまかせ!』が放送された際に、あまりにも史実を無視した内容や設定に憤慨し、脚本を担当した三谷幸喜に「維新回天の英霊を愚弄する低俗な内容、本人の墓の前で土下座して謝罪するべき」と抗議したこともある。 本名「鉄矢」は本名であるが、大学生の時まで「鉄也」だと思い込んでいた。これは親が「鉄也」と教えていたためであり、試験の際に記入した氏名に対して、担当教官から「ペンネームを使うな」と指摘されたことで発覚した。両親も届け通りの本名を指摘されるまで忘れていたという[注釈 10]。本名発覚当初は困惑していたが段々と受け入れ、使用するようになった[25]。既婚者で娘が二人いるが、個人情報の取り扱いが厳格になった現在は公表していない[注釈 11]。1974年11月27日、カトリック大名町教会で山田節子と結婚。妻は熊本の農家の娘で元銀行員。 大阪嫌い母親譲りの大阪嫌いとして有名で、『笑福亭鶴瓶のメインキャスト!』(2007年〈平成19年〉4月4日放送、TBS系列)において、「数を数える時に節を付けるのがおかしい」「大阪は他人に頼ってきたから主体性が無い」「大阪人は信用できん」「すぐに人を騙す」などと発言[出典無効]。また、ドラマの控え室で大阪府に居住歴のある木村拓哉にずっと大阪に対する悪口を吹き込んでいたため笑福亭鶴瓶が止めに入ったが、武田はそれに対して「大阪のどぶ鼠が!」と切り返した。鶴瓶は、『きらきらアフロ』(テレビ東京系列)で「根に持っている」と発言したり、『ヤングタウン日曜日』(MBSラジオ)でも一連のやり取りに触れたりするなど不満を表明している[出典無効]。『武田鉄矢・今朝の三枚おろし』(2007年7月6日放送、文化放送)内で森喜朗元総理の失言(大阪に対する悪口)を具体的に紹介、隣にいた水谷加奈を大笑いさせた[出典無効]。これらの鶴瓶とのやり取りに対し、武田本人は「鶴瓶との喧嘩みたいに、芸能人の営業のうちだよ」と答えており、「芸能人の営業」のために大阪や大阪人を揶揄しているともとれる発言をしている[26]。 ただし、『白夜行』の大阪府警・笹垣潤三役(神戸弁)[27]や『純と愛』の狩野善行役など、関西弁で話す役柄を演じることが度々あり、『JIN-仁-』で緒方洪庵役を演じた際には、緒方の大坂居住歴が長いことに着目し、当初共通語であった台詞を上方言葉に改めて演じた[28]。このエピソードから、俳優としては大阪嫌いのエピソードとは関係なく演じていることがある。 なお、大阪弁は現在でも苦手で、苦手になった理由については「昔、フランスのパリへ旅行に行った時に、エッフェル塔の展望台に登ったんです。そこでパリの風景を堪能していたところ、日本人の旅行グループに遭遇して、彼らが大阪弁をやかましくしゃべっていたんです。それを聞いた瞬間に今まで見ていたパリの風景が壊れてしまった」という趣旨の発言をしている。 父について2023年12月の朝日新聞のインタビューでは中国戦線の復員兵で骨の髄まで軍隊に染まっていた父について語っている。 父は武田に対して「もう1回戦争になったときは武器に恵まれますように」と「鉄矢」と名付けた[29]。1950年代の子供5人を抱えた月給1万円そこらの施盤工にもかかわらず給料をはたいてやけ酒をあおり、酒乱で戦争体験の自慢ばかりする父のことが武田は嫌いであった。あるとき父が戦地で中国の匪賊を何人か日本刀で斬首したことを自慢した際に武田は本当に嫌な気持ちになり、母はそれを聞いて静かに横で首を振っていた。後年武田は戦後当時の父には居場所が無かったのだと慮っているが、父の生前に武田は彼との関係を断ち切っていた[30]。 武田が高校生ぐらいになると元兵士が「平和が一番」というようなことをメディアで語る時代となったが、父はこの時代になっても戦争に対して何の反省もなく、いつまで経っても「武器さえれば勝っとう」とばかり話していた。ある時戦友会に出た父が連隊長から「あの武田鉄矢は貴様の息子か」と握手を求められ、父はその話を涙を流して話していたが、父の人生での喜びは武田の存在ではなく「連隊長に褒められた」ことだったのだと呆れた[29]。 父は1983年に死去し、生前武田は父とは和解できなかったが、父の死後に戦争経験者である司馬遼太郎や阿川弘之の作品を読んだり、シベリア抑留経験者の吉田正や三波春夫の曲を聴いたりするうちに、武田は父の不機嫌の正体、言葉で表せないトラウマを理解するようになった[29]。 その他運転免許を取得したのがかなり遅く、1996年に取得した[21]。本人曰く「取得に20年かかった」という[注釈 12]。そのため、『幸福の黄色いハンカチ』では運転するシーンはトレーラーでけん引しながら撮影された[注釈 13]。この免許取得の経験が、ドラマ『教習所物語』の原案に繋がっている。 西田敏行とは、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』でコント共演をして以来、家族ぐるみの付き合いをしている。「西やん」、「鉄ちゃん」と呼び合うほど仲のいい親友である。2010年(平成22年)にはNHK-BS2のBSエンターテイメント「西田・武田の笑モード」で久しぶりに共演している。 非礼な者に対してしばしば厳しい態度をとることで知られる。時には街中でサインや写真を求められても拒否し、握手すら拒否をすることがあるという。これに対し上沼恵美子は「ファンと一緒に写真を撮るのはありがたいこと。何言うてるの武田!いい加減にせなあかんで!」「私はサイン頼まれたら箸袋の裏にでもサインする。何が金八先生や!」と『上沼・高田のクギズケ!』の番組内で武田を痛烈に批判している[出典無効]。武田自身はテレビ番組『ワイドナショー』(2016年6月16日)内において、上記の対応が事実であることを認めた上で「人の隙をつくような人をあまり好まないんですよ」「最近は写真に関して日本人はくどくなりましたね。人間と接する時の第一の行動がそれになっている」と主張し、「いつも塩対応ばかりじゃありませんからね」と笑いを取り締めくくった[出典無効]。 独特の喋りと癖から多くの芸人にモノマネされる事が多く、代表作の金八先生の物真似は勿論の事、全盛期に特徴的だった長髪を撫で上げる仕草や話をしている最中に体を大きく動かす癖が定番となっており、武田自身はモノマネについて『悪意丸出しじゃなければ大目に見る』と語っていたものの[31]、『ワイドナショー』に出演した際に共演した神田愛花から『(モノマネは)誇張してなかった』とイジられ困惑した事もあった[32]。 いじめ問題に関しては2006年に「いじめるヤツにどんなに説教しても変わらない。大事なのはいじめられているヤツを鍛えること」と語っていた[33]。 『マルちゃん赤いきつねと緑のたぬき』のCMを長年演じ続け「うどんはコシだ!」のフレーズで知られているが、本人は柔らかい博多風のうどんが好きであり、逆にコシのあるうどんを嫌っている[34]。 ディスコグラフィシングル
デュエット曲
武田鉄矢一座
参加作品
アルバムスタジオ・アルバム
ライブ・アルバム
ベスト・アルバム
企画アルバム
CD-BOX
タイアップ一覧
NHK紅白歌合戦出場歴
提供曲(作詞)
現在出演テレビ
ラジオ
出演作品テレビドラマ
映画
劇場アニメ
海外アニメ
ゲーム
人形劇
Webドラマ
舞台
ラジオ
バラエティ・情報番組
その他
CM
受賞
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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