1956年11月、クオリー・バンク高等学校在学中のジョン・レノンとエリック・グリフィス(英語版)はスキッフル・バンドを結成することを決めた[3]。初期の編成は、レノンとグリフィスがギター、ピート・ショットン(英語版)がウォッシュボード、学校の友人であるビル・スミスがティーチェスト・ベースという編成だった[4][5]。当初のバンド名は「ザ・ブラック・ジャックス」(The Black Jacks)であったが、学校の名前を参考に(クオリー=採石場、石=ロック)「ザ・クオリーメン」(The Quarry Men)に改名[6]。8月にコリン・ハントン、レン・ギャリーが加入し、スミスが脱退する。続いてショットンが脱退する。
1958年7月12日、レノン、マッカートニー、ハリスン、ハントン、ロウの5人で17シリング6ペンスを出し合い、リヴァプールの貸しスタジオ「フィリップス・サウンド・レコーディング・サービス」で初の録音を行い、1枚のSPレコードを自主制作した。A面に「That'll Be The Day」(オリジナルは1957年のバディ・ホリーの曲)、B面に「In Spite Of All The Danger」(マッカートニーが書いた曲)が収録された(ラベルの写真)。このレコードは長年に渡ってロウが所持していたが、1981年にマッカートニーが買い取り現在まで所持している。この音源は1995年にアルバム『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』の収録曲としてリリースされ、その際「In Spite Of All The Danger」はハリスンがギターソロを弾いたことから唯一の「マッカートニー=ハリスン」作品としてオリジナルの表記通りクレジットされた。このクレジットについてマッカートニーは「当時はリードギターのパートを考えたら、クレジットしなければいけないと思っていた」と語っている。
録音の直後にロウが脱退し、1959年1月にハントンが脱退。この頃から「クオリーメン」ではなく「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」(Johnny & The Moondogs)と名乗るようになる。
1970年のビートルズの解散、1980年のレノンの死去後、クオリーメンは幾度か再結成している。1994年から1995年にかけてデイヴィスとジョン・ダフ・ロウ(英語版)は、スタジオ・ミュージシャンと共にアルバムの制作作業を行なった。このアルバムは、1995年にクオリーメン名義で『Open for Engagements』という名で発売された[12]。