ジェフリー・アーネスト・エメリック(英語: Geoffrey Ernest Emerick、1946年12月5日 - 2018年10月2日[2]
)は、イギリスの音楽プロデューサーおよびレコーディング・エンジニア。
彼のキャリアで最も有名な作品には、ビートルズのアルバム『リボルバー』、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』、『ザ・ビートルズ』 (ホワイト・アルバム)、『アビイ・ロード』と、ポール・マッカートニー&ウイングスのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』がある。
来歴
ビートルズ・セッション
ジェフ・エメリックが最初に勤めたレコーディング・スタジオはEMI ロンドン・スタジオ (現:アビー・ロード・スタジオ) で、15歳の時にアシスタント・エンジニアとして入ることになった。そしてビートルズの担当エンジニアだったノーマン・スミスのアシスタントとして、ビートルズのレコーディング・セッションに参加していた。彼が初めて参加したのは1962年頃で、ピート・ベストからリンゴ・スターへとドラマーが交替し、最初のシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」を制作していた時期になる。そして初期の数々のビートルズ・セッションでアシスタントを続けるほか、EMIレーベル内の他の仕事も時々手伝うようになり、ジュディ・ガーランドのセッションや、EMI側からの要請でホリーズのテスト・レコーディングなどへも参加するようになった。
アシスタント・エンジニアからチーフ・エンジニアへの昇格は、1966年にイギリス国内でNo.1 ヒットとなった、マンフレッド・マンの「プリティ・フラミンゴ」(Pretty Flamingo) のエンジニアリングを担当した事が切っ掛けとなっている。チーフ・エンジニアだったノーマン・スミスが新人アーティストのプロデュース業も行うようになり、ビートルズだけに専念できなくなってきたため、ジョージ・マーティンの希望で、その後釜としてジェフ・エメリックが抜擢された。1966年発表のアルバム『リボルバー』のレコーディングが、チーフ・エンジニアとしては初めてのビートルズのセッションへの参加となる。『リボルバー』に収録されている「トゥモロー・ネバー・ノウズ」がジェフ・エメリックにとってビートルズ作品で最初にエンジニアリングを担当した曲であるが、ジョン・レノンの「ダライ・ラマがチベットの山頂から説法しているような歌の聴こえ方にして欲しい」という抽象的な要望を実現させるために、レスリー・スピーカーを駆使したコーラス効果など、様々なエフェクトや録音方法のアイデアなどを考案した。これがビートルズのメンバーとジョージ・マーティンに気に入られ、この時に開発した手法はビートルズの中期以降の作品におけるサウンド作りの出発点となっている。「トゥモロー・ネバー・ノウズ」では曲の後半に掛けてボーカル以外のバッキング・トラックもレスリー・スピーカーへ送り、ワン・コードでペダル・ノートに近いコード進行の曲に対して斬新なアプローチでエンジニアリングするなど、当時のポピュラー音楽の手法に様々なアイデアも持ち込んだ。
他にも『リボルバー』では「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」におけるオン・マイキング [3] で収録されたブラス・セクションのサウンドや、同様にドラムスのバス・ドラムに対して立てられるマイクロフォンもオン・マイクで設置し、「タックスマン」で聴けるようなアタック成分を強調した音を作るなど、それまでのエンジニアリング手法をどんどん変革していった。
その後はアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のレコーディング・セッションでも様々なアイデアを元にした手法でエンジニアリングを行った。当時は4トラック [4] のテープ・レコーダーしか無かったため、スタジオのケン・タウンゼントとEMIの技術陣の協力の下で、複数台のテープ・レコーダーを同期運転させる技術的方法が具象化されたなかで、バッキング・トラック以外のオーケストラやその他の楽器をもう1台のテープ・レコーダーと同期運転させながら多重録音したり、その同期運転の技術を応用し「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」で聴く事が出来る「テープ・フランジング」や「ADT」(Artificial Double Tracking) などの方法を使って制作作業に参加していた。『ザ・ビートルズ』(ホワイト・アルバム)の頃になるとEMI ロンドン・スタジオ内の第1、第2、第3スタジオと同時並行でのレコーディングが行われたため、全ての曲に参加する事はなくなったが、アルバム『アビイ・ロード』では同僚のフィル・マクドナルド (Phil McDonald) と共にジョージ・マーティンのもと、レコーディング・セッションに参加した。
ビートルズ以降
ビートルズ解散以降もジェフ・エメリックは様々なレコーディング・セッションにエンジニアまたはプロデューサーとして参加している。1970年11月に発売されたバッドフィンガーのセカンド・アルバム『ノー・ダイス』のプロデュースを担当し、1973年にはポール・マッカートニー&ウイングスのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』、1978年にはウイングスのアルバム『ロンドン・タウン』、1997年にはポール・マッカートニーのアルバム『フレイミング・パイ』へエンジニアとして参加している。他にも ジェフ・ベック、エルヴィス・コステロのアルバム『インペリアル・ベッドルーム』と『オール・ディス・ユースレス・ビューティ』のプロデュース、アート・ガーファンクル、アメリカ、スーパートランプ、チープ・トリック、スプリット・エンズ、ナザレス、マハヴィシュヌ・オーケストラ、マシュー・フィッシャーの最初のソロ・アルバム『ジャーニーズ・エンド』、ウルトラヴォックス、ネリー・マッケイの大きな賞賛を受けた2004年のデビュー・アルバム『Get Away from Me』などがある。ロビン・トロワーの最も有名なアルバム『ブリッジ・オブ・サイズ』でエンジニアを担当し、当時はスリーヴ以外ではアルバム・ジャケット自体にスタッフ名がクレジットされる事はまだ無かったが、トロワーとプロデューサーのマシュー・フィッシャーと共に、その素晴らしい音作りからアルバム・ジャケットにクレジットされることになった。
1985年に発売予定だったビートルズの未発表曲集『セッションズ』のプロデュースとミキシングを担当したが、マスターテープが完成した直後にメンバーがリリースを拒否されたため実現しなかった。(楽曲大半は全て『アンソロジー』に収録されている。)
2003年にはグラミー賞の特別賞として技術面で貢献した人物に贈られる「Tech Award」を、生涯にわたる技術的業績に対して受賞している。これはジェフ・エメリックにとっては4回目のグラミー受賞となる。
2006年にジェフ・エメリックは自身の回想録「Here, There, and Everywhere: My Life Recording the Music of The Beatles」(Gotham Books, ISBN 1-59240-179-1)をベテランの音楽ジャーナリスト、ハワード・マッセイとの共著で出版した。日本では『ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実』として白夜書房から出版されている。
2007年4月3日には『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の現代のミュージシャンによる再録音が準備中であると報じられた。そのミュージシャンの中には、オアシス、ザ・キラーズ、トラヴィス、レイザーライトらが含まれていた。ジェフ・エメリックは新バージョンを録音する為に、オリジナルの制作当時にEMI ロンドン・スタジオで使用していたビンテージ機器を再び使用し、完成した新バージョンの音源は、BBC Radio 2でオリジナル・アルバム発売日からちょうど40周年目にあたる2007年6月2日に放送された。
2018年10月2日、アメリカのビートルズ関係のイベントの準備中に心臓発作のため72歳で死去する。長年、心臓に問題を抱え、ペースメーカーを使用していたことがマネージャーより公表された。[5]
グラミー受賞歴
- ビートルズ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』
- Best Engineered Album, Non-Classical 受賞。
- ビートルズ『アビイ・ロード』
- フィル・マクドナルド (エンジニア) と共に Best Engineered Album, Non-Classical 受賞。
- ポール・マッカートニー&ウイングス『バンド・オン・ザ・ラン』
- Best Engineered Album, Non-Classical 受賞。
- 長年の功労に対して送られる Special Merit Awards で Tech Award 受賞。
脚注
参考文献
- ジェフ・エメリック、ハワード・マッセイ 著、奥田祐士 訳『ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実』白夜書房、2009年9月9日。ISBN 978-4861915567。
- 隔月刊プロサウンド、2003年8月 / 第116号
- 隔月刊プロサウンド、2002年2月 / 第107号
- 隔月刊プロサウンド、2001年2月 / 第101号
外部リンク